JRAには金を預けているだけ!

競馬日記。主に3連単フォーメーション

旅をすると云う事は行った先に旗を立てると云う行為だ。ってぼのぼののお父さんは語った

春から小学3年生になる息子の部屋を作るために家の中を片付けていると天袋からズッシリと重たい小さいダンボール箱が出てきた、段ボールを床に下ろし中身を確認すると「写真家になる!」と、のたうち回っていた頃の写真が大量に出てきた。大掃除だとか模様替えの時に昔のアルバムなんかを発見すると大抵碌な事にならないのだが、今回も例に漏れず作業は中断し僕はその小さな段ボールの中身を吟味し始めてしまったのだった。

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無地良品のクリアアルバムをパラパラとめくっていると一枚の写真が目についた、小川に沿って咲く桜の木々が一点透視図の消失点へと収束している、そして写真の余白には日付であろう数字の羅列が書かれている、恐らく2007年の春であるらしい写真を手に取り此処は何処だっただろうかと更に小さなダンボールを漁っているとA5サイズ程の一冊のノートが出てきた、ノートをパラパラとめくるとヘタクソな絵と死ぬ程恥ずかしい詩のような言葉の間に一枚の切符が挟まっていた、その切符は2007年の春に僕が青春18きっぷを使い旅をしていたと云う事実を教えてくれた。

 

2007年28歳になる年僕はかなり煮詰まっていたハズだ、写真学校もとっくに卒業をしキチガイの女から逃げて僕はゲージュツ家にも社会人にもなれず銀座のハンバーガー屋のバイトと高圧洗浄屋のバイトをしながら糊口を凌いでいる状況だった、これからの未来に一寸の光も見えない暗闇!それは今まで色んなモノから逃げながら退路を塞ぎ辿り着いた言うならば絶望と言う名の岬、そして僕はその岬に立ち真っ暗な大海原に手漕ぎボートを浮かべボートに乗り込む用意をしている、しかし今日は少し寒いだとか今日は天気が悪いだとか今日は仏滅だとか色々ケチを付けてボートに乗り込もうとはしない、本当は暗い海の向こう側に何があるのかなんてわからないし知りたくもない漕ぎ出す気もないボートに乗る振りをしてひたすら絶望に立ちすくむ臆病な人間だったのだ。

 

そんな僕のささやかな楽しみと云えば年に三回発売される青春18きっぷを使い貧乏旅行をする事だった、「青春18きっぷ」なんて名前だがその切符は18歳でも青春でもない人間が買っても問題はなく期間内の五日間であればJRの普通電車乗り放題になると云うスグレモノなのだ、僕にとっては宛ら絶望28きっぷとでも呼びたくなる様なその切符を握りしめ2007年の春僕は一人福岡を目指していたのだった。

青春18きっぷを使い西日本方面へ向かう場合僕は先ず京都に向かう事にしていた、それは京都には高校の同窓である「ネジン」が住んでいるので宿泊に困らないと云う点と京都からだと山陰方面山陽方面紀伊半島中部地方とどこにでも出やすいので「先ずは京都。」と、貧乏旅行の始まりは始発の東海道線に乗り込みひたすら京都を目指す事から始まるのが常であった。

京都駅には15時頃到着した、延々と電車に乗っていた僕はその窮屈な車内から飛び降り駅のロータリーに出るといつものように京都タワーが眼前に映る、京都タワーは「おいでやす〜。」と僕に囁いてくれている様な面持ちでいつもそこに佇んでいるのだった。夕方に「ネジン」と合流すると飯を食い銭湯に行きネジンの部屋でドラクエⅢをやるのがいつものルーティンだった、ネジンの所有するドラクエのカセットには僕のセーブが存在しており京都に行く度にチマチマと魔王征伐の為の旅を続けるのだが年に数回数時間ずつしか進まない勇者「かにまる」の旅は遅々として進まず寧ろそのファミコンの古いカセットのセーブデータが消えていない事が奇跡の様な存在であった。

「明日は始発に乗って鳥取方面に行く。」僕がドラクエをやりながらネジンにそう言うと

「俺も行く、余部陸橋が新しくなるから今のうちに渡っておきたい。」と、やや鉄の入った発言をしたので僕達は翌日一緒に旅をする事にした、宛ら勇者「ぼく」と僧侶「ねじん」と云った感じであろうか?勇者「ねじん」と遊び人「ぼく」だろうか?目的は余部陸橋を渡り鳥取で海鮮丼を食う、魔王討伐と同じ位素晴らしい目的だ。

翌日白み始めた静かな朝の街を僕達は二人京都駅を目指し歩く、ねじんの家は五条烏丸にあり京都駅へは歩いて10分程で着くのだった。山陰本線のホームは京都駅の一番隅っこにありそこから2両編成の電車に乗り込む、福知山での乗り換えで朝食をとり再度電車に乗り込む時にねじんが進行方向から右側の椅子に座ろうと言ったので僕達は右側のボックスシートに向かい合い座る事にした、電車は城崎温泉を過ぎると右手に海を見ながら走る、ひたすら青い日本海が銀色の波の背を幾重にも列ね遠く空に吸い込まれていく、窓の外はひたすらに青かった、ねじんはきっとこの景色が見たくて右側に座ろうと言ったのだろう、しばらく僕達はその青を眺めていた。

余部陸橋を渡り鳥取に着き海鮮丼を食った僕達は魔王討伐を果たした勇者の如く誇らしいエンディングを迎えていた、

「帰りにまた寄らせてもらうカモ。」

鳥取駅のホームで僕はねじんにそう伝えると軽く敬礼をして電車に乗り込む、僕がシートに座り窓の外に目をやるとねじんがニヤリとした顔で敬礼を返してくれていた、ねじんは明日からの仕事の為に京都へ戻り僕は福岡を目指す、その為僕達はここで別れる事となったのだ、暫しの別れのセレモニーを堪能していると電車は走りだし再び窓の外に海があらわれる、その青が緋色そして濃紺になった頃僕は松江に着いた。

鳥取駅で「また寄らせてもらう『カモ』。」と、ねじんに曖昧な言い方をしたのには理由があった、それはこの旅の最終目標が「福岡に行き『さとちゃん』に求婚をする。」と云うことにあった。さとちゃんは写真学校の同級生であったマイコの高校時代の同級生であり一度さとちゃんが研修の為に上京した際に日吉にあったお好み焼き屋「王将」で飯を食っただけの仲であったが

「今度福岡まで行くからそん時は案内して下さい。」と、別れ際にお願いした僕の言葉を快諾してくれており翌日にその約束を取りつけていたのだった、そして求婚が成功したら福岡で仕事を探し福岡で暮らそうと僕は本気で考えて旅を始めていたのだった。

明日さとちゃんに会うのに野宿はマズイだろ、と考えた僕は松江駅に着くと安いビジネスホテルに宿を取り飯と風呂を済ませると早めに寝ようとベットに潜ったがなかなか寝付けない、そこで僕は1000円分のテレビカードを購入すると部屋に戻りテレビガイドを眺め「浣腸学園」なるタイトルのアダルト番組を見る事にした、「浣腸学園」は良い子悪い子普通の子みたいな三人の女優が浣腸をしながら体育の授業をしたり給食でカレーを食うと云った大変下らない内容であったが僕は「くだらねー」と思いながらいつのまにか眠りについていたのだった。

 

翌朝僕は先ず玉造温泉に向かう事にした、それはねじんとの旅の中ねじんが

玉造温泉は日本最古の温泉だから行っておいた方が良い。」と、薦めてくれたからだった。駅に着くと構内にあった地図付きのチラシを一枚手に取り温泉街へと歩く、空は一面青く木々は緩やかな風に若葉を煌めかせる、花々は思い思いの色を纏いその景色を鮮やかに縁取っている、辺りは噎せ返るほどの春だった。大きく右に曲がる緩い下り坂を抜けると右手に保育園を見ながら道は小川にぶつかった、僕はその小川に架けられた小さな石造りの橋の上に立ち川沿いに立ち並ぶ満開の桜を見ながら園庭で遊ぶ子供たちの声を聞いているとこれからの事が全てうまく行くような気がした、これからさとちゃんに会い僕は福岡で新しい生活を始める、子供ができたらみんなでこんな桜の咲いている小川の土手などに弁当を広げ花見をする…そうこれからは今までの物を全部捨てて新しく真っ当に生きていこうじゃないか、路傍に咲く名前も知らぬ花を美しいと思うように生活の隅々にある小さな幸せをしっかりと踏みしめながら生きていこうじゃないか。僕はそんな事を思いながら2007年3月28日その小川の土手で写真を撮ったのだ、それから温泉街に行き日帰りの温泉へ入ろうと思ったのだがまだ朝早かったために温泉は営業前だった為僕は温泉を諦め来た道を駅へと戻ったのだった。

関門海峡の長い(長くない)トンネルを抜けると福岡だつた”、さとちゃんから来たメールには「19時に薬院駅」と書かれていたが博多駅にはそれには幾分早く到着した、そんな事だったらもう少し待って温泉に入ればよかったなぁと思いながら僕は西鉄線にのり薬院駅へ向かった。高架駅の階段を降り駅前にあった不動産屋に貼り出してある物件に目を通したりしながら僕は19時を待ち遠く思いながら薄暮れの街をアテもなく歩いた、道行く人たちはきっといつもの様にいつもの生活をしているのだろう、僕だけが今人生の分水嶺に立ち希望と絶望の峰を歩いている、そんな事を考えひたすら街を歩いた。

さとちゃんは大学で心理学を学び今は学校のカウンセラーをしており彼女曰く「ロジャース派。」と、云う大変学の高い女性だった。一度しか会ったことのない男が東京から貧乏旅行をしながらやって来ても嫌な顔もせず会ってくれたのはきっと彼女の生来の根の優しさにあったのだと思う。僕達は約束の時間に落ち合うともつ鍋屋に入った、そこで僕はもつ鍋を食いながら今日までの旅の事、今人生で煮詰まっている事、そして今までの物を全部捨て新しい所で生きたいから一緒になってくれ、満開の桜の咲く小川の土手で花見をしようじゃないか!その為にここにきたのだ、と、さとちゃんに伝えた。彼女は終始笑顔で僕の話を聞いてくれたのだが

「一度しか会った事のない人に求婚されてもそれは困る、何もかも捨てて誰も知らない場所で生きていくのは一人でもできるんじゃない?」

と、至極真っ当な事を言った。そうだ、僕はきっと求婚が成功し『たら』とか何々でき『れば』とかいろいろ理屈をつけて何もしてこなかった人間なのだ、さとちゃんはそう云う僕の質をすでに見破っていたのだろう、さすがカウンセラーである。

さとちゃんと別れると僕は失意のまま博多の駅へ歩いて向い駅前のネットカフェに入った、旅の目的を失った僕はここで仮眠をし明日大分まで行き大分港から神戸行きのフェリーにのり神戸から青春18きっぷの最後の1回を使い東京へ帰る事にした、ネットカフェで時刻表などをメモしこれからの行程を確認すると僕は仮眠のため狭いブースの中で横になったのだがなかなか寝付けないでいた、福岡に来れば何かが変わると思っていたが何も変わらない、どこにも行けず何もできない自分へのそのやるせない空しさを抱えたまま結局一睡もできずに朝を迎えたのだった。

大分港へ向かう道半ば僕は小さな無人駅で電車を降りた、特に何かあった訳では無いのだが寧ろあまりにも何も無いのが気になって下車をしてしまったのだった。名前は失念してしまったがその駅の駅舎であろう小さな小屋は大工のおっさんが半日もあれば作れそうな造りで券売機も改札もなくそれが駅だとは俄かには信じられない程であった、駅の周りを小一時間程歩いたが本当に何もなかったので僕は散策を諦め駅に戻りホームに腰をかけ次の電車を待つ事にした、向こうに見える山の緑を眺めながら昨日さとちゃんが言った「何もかも捨てて誰も知らない場所で生きていくのは一人でできるだろ」と云う言葉を思い返す、きっと僕が本気であればこの駅に留まりここで木こりにでもなって一人で生活だって出来るはずだ、しかし僕にそんな根性や決意など到底持ち合わせていないのだった!つまりこの旅の決意など所詮そんな程度の薄っぺらい物だったのだ。僕は絶望と云う岬に立ちボートを浮かべているわけでもなく人生の分水嶺に立っているわけでもなく実は全く平坦な道の真ん中でなんか無いかなぁと立ち止まっている間抜けな男だったのである。

2019年息子の為に片付けをしていた僕によって発見された2007年の桜の花はきっと今年も変わらず咲いているだろう、僕はあん時よりも少しはマシになっているだろうか?僕はその写真を額に入れ息子の部屋に出来た真新しい机の上に置いてみたがすぐに息子ののザクⅡに追いやられ僕の手元に戻ってきてしまった、今度家族みんなでこの土手で花見をしようじゃないか!再び手に戻ってきた写真を眺めそう思ったのだった。