アリゲーター・カー
35歳の夏、僕は困窮していた。
30歳になる直前から人生で初めて正社員として働き始めていた高圧洗浄屋の給料は5年目35歳の夏では額面33万円程度だった、しかし手取りの金額は何故か24万と額面に見合わないほどの金額を控除されていたのだった。それは税金と社会保険のほかに社員旅行積立(5年間で1回しか行かなかった)やら建退協の掛金(違法)など意味の解らない項目を差っ引かれている為であり、僕はそんなアホくさい明細書を見る度に毎月深いため息を吐くと共にやるせない心持になるのであった。
そもそも、毎年1万ずつ基本給を上げてやると云う社長の言葉が2年目で反故にされ不信感を抱いていた僕にとって仕事に対するモチベーションを維持する最後の望みとなっていたのは、一年前に社長が言った
「来期の売業績が良かったら賞与を100万にする。」
と、云う一言だった。そして、今よりはまだまだピュアだった僕はその言葉を唯一の拠り所にし
「1年間で1000件の現場をこなす!」
と、自分なりの目標を立て鼻息を荒く100万円の賞与の為に仕事を続けていたのだった。
高圧洗浄屋の就業時間は8:00~18:00で現場がなければ日曜日と隔週土曜日が休みだったが繁忙期になるとそんなに休めるはずもなく、月末の締め日が近くなると社長が
「休日買い取る?」
と打診をしてくるのだが、その買取金額はたったの一万円であり、たまに来る大学生のバイト君の日当より安いと云うふざけた金額設定だった。
そんな中僕を一番陰鬱たる気分にさせたのは「待機」と云う制度であった。それは自分の携帯に会社の電話が転送され24時間体制で緊急対応を行わなければならない恐怖の制度であり、社員が一人ずつ一週間「待機」を順繰りに回していくのだった。「待機」になるとその一週間は酒も飲めずたとえ現場の無い日曜日であってもどこにも行けず常に転送電話に怯えながら過ごさなければならないと云う地獄の制度だった、しかしながらそんな日曜日でも休日扱いとされ仮に携帯が鳴り緊急対応を行ったとしても一件5000円の手当しか出さないクソケチな社長に対し、いつしか僕は怒りと憎しみの感情を抱くようになっていたのであった。
そんな35歳の夏からさかのぼること約半年前の年の瀬、巣鴨の寿司屋で執り行われていた会社の忘年会の最中社長が突然
「来年は埼玉に営業所を出す!」
とアホ面を若干高揚させながら語り出した、しかしその高揚感と反比例する様に社員たちは皆ゲンナリと顔を曇らせたのだが社長はそんな者を意に介さないような爛々とした眼差しで
「そして埼玉が軌道に乗ったら千葉県にも進出する!」
と、続けたのである。
そして数ヶ月後、その言葉通りに埼玉の坂戸に新しく営業所を作った社長は新車の高圧洗浄車を一台購入し一番の古株だった社員と共にその営業所へ意気揚々と送り込んだのだった。
しかし、残された者たちは4週間に一回だった「待機」を当たり前のように3週間に一回にされ、通常業務でも抜けた古株の分をカバーしなければならないと云ったなかなかの惨状に陥った。
「もぅムリ…」と、なった僕は社長に「待機」手当だけでも増額してくれと直訴したのだが
「なんで?無理!」と、けんもほろろに一蹴されてしまったのだった。
新しい営業所の売り上げは最初の2か月で5万5千円だった。新しく事務所を構え800万以上する新車の高圧洗浄車と共に一番高給をとっていた古株の社員を引っ張て行って売り上げがたったの5万5千円、そりゃ「待機」の手当を増やせと言っても無理なはずだろう。
そんなモヤモヤとした心持ちの最中、僕の心を決定的に打ち砕く出来事が起きた。
なんとバスのアナウンスで会社のCMを流すバス広告に年間80万円で契約したと云うのである、そして賞与月になる頃には
「あ~会社お金ないな~。今年は賞与出せるかな~。」
と、社長がぶつぶつつぶやきだしたのである。
年間1000件までは行かなかったが900件以上現場に走り古参の居なくなった穴まで埋めていた自分は100万円までは無くても去年よりは多めに賞与を貰えるかな~と淡い期待を抱いていただけに、その社長の一言は僕をひどく失望させると共に【何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安】が自分の胸の中にふつふつと湧いてくるのを感じた。
某動物園の虎の檻の中。
そんな【ぼんやりとした不安】を抱きながら虎の為にある水飲みの排水詰りを、僕が元請である水道屋の番頭さんに会社や社長の悪口を吐き捨てるように並べながら修理していたある日
「今度休みの日にバイトに来い、そん時に直近の給料明細も持って来い。」
番頭さんは僕の愚痴をひとしきり聞いた後にそういったのだった。そして数週間後の日曜日僕は言われたように給料明細を持って水道屋にバイトに行った、言われた寸法にパイプを切る作業を半日ほど手伝うとバイト代だと言って2万円を渡された、そして給料明細を番頭さんに渡すと
「ウチならこれだけ出すからウチに来い。」
そう言うと僕に、高圧洗浄屋の年収の1.5倍以上になる金額を提示してきたのだった。35歳、子持ち、ローン持ちの自分が職種まで変えて転職する事には滅茶苦茶不安を感じたが、収入は1.5倍になる…しかし新しい仕事についていけなかったら…様々な葛藤を抱えながら僕は一つの決心をした。夏の賞与の金額で決めよう!あんな事を言っていたがもしかしたら少しは社員の事を考えているかもしれない、去年より一円でも賞与額が増えていたら高圧洗浄屋に留まろうじゃないか、そうでなかったらスパッと辞めてしまおうと。
賞与支給日は僕の人生に於ける大きなターニングポイントになっただろう。
夕方になり社長から『賞与』と書かれた茶色い封筒を渡されると僕は中に入っている明細を引き抜く、そこに記載されている数字が全てだ、会社や社長からすればそれはただの整数の羅列かもしれないが僕にとっては今後の人生を左右する重要な数字、僕は恐る恐るその整数の羅列を確認した。するとそこには去年と全く変わらない数字が並んでいたのだった、1円も増えていないし1円も減っていない…僕がなんとなく微妙な心持になっていたところに社長が
「今年も賞与もらえてよかったね。感謝してね。」
と、一言付け加えたのだった。
僕はその言葉を聞くと頭の中が酷く冷たくなるのを感じた、それと全く反対に顔じゅうの皮膚が熱くなりうっすらと発汗してくるのも感じた、きっと僕は酷く怒っていたのだろう。数年たった今でも僕は未だにあの時の言葉と、あの虫唾が走るようなにやけた顔を忘れることができない。
数分後僕は水道屋の番頭さんに電話をしていた。
「いつから来れるんだ?」
と云う問いに
「10月から行けます。」
と、答えると僕はその日のうちに退職届を書き翌日社長へ手渡したのだった。
退職届出したその日は酷い夕立があった。雨が止み僕はカブに跨り帰路に就く、退職届を出した後の晴れやかな気持ちが夕立の後の空を僕の目に一層と輝いて映す、そんな中僕は東の空に一跨の虹を見つけた。
「大丈夫、なんとかなる。」
僕は虹を眺めながら自分の中の弱気な部分にそう言い聞かせた。
その日から数年が経ったが僕は今、なんとか水道屋をやっていけている。年収は高圧洗浄屋の頃の2倍以上になった、あのままあの場所に留まっていた自分と今の自分を比べる由はないのだけれど、今自分は間違っていなかった!と言えればそれでいいハズだろう。