JRAには金を預けているだけ!

競馬日記。主に3連単フォーメーション

AM1:15多摩川駅

多摩川駅前にある郵便局ATMの自動扉の前で男が青白い顔で座り込み動かなくなっている、泥酔しているのだろうか?ダラリと伸びた手先が小刻みに震えているのを見るとどうやら男は生きているらしい。

終電車がホームへ数名の乗客を吐き出す、若いカップルは腕を組みとろとろと、仕事帰りだろうか?黒いコートの男は俯き加減早足で、酩酊状態の白いロングコートの女は駅員に何か文句をを言うとフラフラと、誰も男には一瞥もくれずにそれぞれがそれぞれの帰る場所へと帰って行く。

辺りは静寂に包まれる、しかしそれも一瞬の事。発電機がけたたましく静寂を破ると僕等は床を斫り便器を切削する、初電までの3時間ノンストップで作業は進む。年が明け僕は某急電鉄の旅客駅にある和便器を洋式化する工事に従事している。

 

多摩川駅の近くには「art & river bank」と云うギャラリーがあった、いやまだあるのかもしれない。そしてそのギャラリーは「スギタアツシ」と云う人物が主催者だった、いやまだ主催しているのかもしれない。

「スギタアツシ」は僕が写真学校の2年生の時「現代美術」の講師だった人物だ、女子美で教授だか准教授だかをやっていて美術評論では有名な人物だと云う事だったが薄暗い教室でプロジェクターを使ってホニャララホニャララと語るその授業は日中は労働に勤しむ夜間の苦学生には貴重な睡眠時間でしかなく例に漏れず僕も激しい睡魔と戦いそして敗北を繰り返していたのだった。きっとスギタアツシもこんなアホな人間達に高尚な授業を行うと云う行為はただ金の為だけであって、豚に真珠猫に小判馬の耳に念仏と思っていたに違いない。

ある日の授業でスギタアツシは

「旅をテーマに作品を制作して下さい、夏休みの課題です。」

と、低俗な僕にでも分かる言葉で語られたのだった、その年はやたらと梅雨明けが遅く7月になっても肌寒い日が続き夏休みといっても学校が無いだけで日中の仕事が無くなる訳でも無い僕にとって「夏休み」と云う単語を聞かされても何の実感もなく、ただメンドくさそうな課題を課せられただけの消沈した気持ちにさせるその言葉に続きスギタアツシは

「僕は夏休みにポルトガルからヨーロッパのアートフェスを廻る予定です。」

と、いった類いの台詞を吐いた為、僕はボロのべべを羽織り痩せた土地を耕す小作農を営む賤民階級でありスギタアツシはピカピカのおべべを身にまといその小作農民から徴収した野菜を「不味い!」と言いながら食い散らかす庄屋様であると云う、現代社会に於ける古き階級制度の名残を切実に実感したのだった。

 

夏休みなると僕は写ルンですを購入しソレを当時職場があった品川駅に出来たばかりの新幹線のホームに居た外国人ファミリーに

「これから行く先々で写真を撮って送り返してくれ、学校の宿題なんだ。」

と書いた手紙と一緒に手渡した。そして数週間後送り返されてきた写ルンですを現像に出し名も知らぬ外国人ファミリーの旅先でのスナップショットを写真屋がくれたプーさんのアルバムに差し込み僕はソレをスギタアツシの夏休みの課題として提出したのだった。

夏休み明け最初の現代美術の授業はスギタアツシが夏休みの課題を個別に評論してやるぞ、と云う大変有難い授業だった。順番が来て呼ばれた僕はスギタアツシが居る部屋の扉を恐る恐る開けた、スギタアツシは僕の顔を見ると表情を強張らせため息をつきながら僕に椅子に座るようにと促した、僕は何か嫌な雰囲気を感じながら椅子に座るとスギタアツシは机の上にプーさんのアルバムを置き

「最高につまらない、評価するに値しない。」

と強い口調で言った、僕はその辛辣な言葉に動揺し何も言えなくなってしまうと終始俯きスギタアツシがヨーロッパで購入したのだろうか?かなりエスプリの効いた幾何学模様のシャツの柄をひたすら目で追い現実世界からの離脱の旅を始めていた、論評は恐らく5分もかからず終わったのだろうが僕にとっては月面にタッチして地上に戻る旅を終える程長く感じたのだった。

僕が月面にタッチをして教室に戻ると「クニイくん」がスギタアツシに絶賛されたと話題になっていた、「クニイくん」は昼は運送屋で働きデスメタルバンドを演っている長瀬智也に似たかなりイケメンの同級生であり入学して直ぐ僕の目の前に座っていた事もあり割と仲の良い人物だった、僕はクニイくんがどんな作品を提出したのだろうかと気になり外でタバコを吸っている彼の所へと向かった。

「よう、どーだった?」

クニイくんの方が先に僕に気づくとタバコをふかしながら笑ってそう言った、

「散々、クニイくんは絶賛らしいじゃん。」

僕がそう云うとクニイくんは手に持っていたA4程のサイズの茶色い封筒を僕に渡してきた、封筒の中には鏡が一枚だけ入っておりその真新しい鏡は今しがた月面旅行を終えたばかりの冴えない男の顔を映し出していた。

「これ?課題」

僕がそう尋ねると

「めんどくセーからそれ買ってきて出した、テメーのダッセー顔でも眺めてろよなぁ。」

クニイくんは笑いながらそう言いうと僕の手から封筒を取り返し

「俺アイツ嫌いなんだよね、くだらねー」

と言いながら勢い良く封筒をゴミ箱に投げたのだった、ゴミ箱に叩きつけられた鏡が封筒の中で割れる音を聞くと僕もクニイくんにならいプーさんのアルバムをゴミ箱に投げてみることにした、アルバムはバサバサと音をたてながら力なくゴミ箱へと吸い込まれていく。ゴミ箱の中で「評価するに値しない」と最低の評価を頂いたプーさんのアルバムと絶賛されたクニイくんの課題が仲良く寄り添っている様をぼんやりと眺めているとさっきまでの消沈した気分はどこかへ消えていったのだった。

 

「コッチ!早く!」

気狂いの女がそう発声した音は閑静な住宅街に不協和音の様に響く、しかもその不協和音が自分に対して発せられた音だと思うと僕は辟易とした気分になった。多摩川駅を降りて多摩川の堤に沿って5分程歩くと道沿いに2階建の古い建物が現れる「art&river bank」はその建物の2階中央辺りの一室にあり、気狂いの女は建物から表の通りに面した共用通路の横桟手摺から身を乗り出し僕に叫んでいたのだった。

気狂いの女は僕の同級生で僕達が2年生に上がる頃に僕の部屋に転がり込んで来た女だった、女はスギタアツシにかなり傾倒しており

「スギタアツシに認められればアーティストとしての道が拓ける。」

と信じてやまなく事あるごとに「art&river bank」に足を運んでは

「私もいつかココで個展するんだ。」

と鼻息荒く語るのが常だった。

その日も「art&river bank」で年末恒例で行われている「depositors meeting」とか云う大層意識の高そうなイヴェントがあり、気狂いの女が

「私たちも参加しよう、お前も参加しろ。」

と、言ってきたので僕はアルバイトが終わると電車に乗り仕方なくギャラリーへと向かったのだった。

ギャラリーの中には本棚が並び本棚には様々なアーティストのファイルが刺さっている、イヴェントはオープン参加型のファイルイヴェントと云う事で僕達も事前にギャラリーへファイル形式の作品を提出しており僕のファイルも気狂いの女のファイルも等しくその本棚のどこかにひっそりと刺さっていると云う事だった。僕はギャラリーに着くとポルトガルの栗で出来た酒のエスプレッソ割だという代物を注文し賑やかなギャラリーから外へ出て先ほど気狂いの女が身を乗り出し僕に向かって叫んでいた共用通路の横桟手摺にもたれかかり表の景色を眺めていた、多摩川にかかる鉄橋の上を数分おきに電車が行き来するのが見える、その電車の四角く光る窓に映る人影の一つ一つをぼんやりと目で追っているといつか僕があの電車に乗り写真家になると意気込み多摩川を渡った日のことが脳裏に浮かんだ、夏の色濃く繁茂する土手の緑を眺めながら空っぽな希望を胸に多摩川を渡っていった僕の人影を今の僕と同じようにここから眺めていた人があったかもしれない、そんな事を考えていると今僕が眺めている電車の窓に映る人影の全てはあの時の自分ではないだろうか?と云うあんぽんたんな錯覚に陥っていたのだった。

それから栗の酒のエスプレッソ割だと云う酒を僕は何杯飲んだだろうか?相変わらず賑やかなギャラリーの中では陽気そうな人びとが各々気に入ったファイルを手に取り眺めている、きっと僕のファイルは誰の目にも触れずその本棚の奥へ奥へと追いやられているのだろうと陰鬱な気持ちでそんな様を眺めていると

「最高につまんない!評価するに値しない!」

と、夏休み明け最初の授業でスギタアツシが言い放った言葉が突如僕の頭の中でイかれたレコードプレイヤーの様に繰り返し鳴り響いてきた。僕はきっと酷く酔っ払ってしまったのだろう、行くあてのない物悲しい気持ちになると丁度空になったグラスをギャラリーのカウンターに戻し誰にも気付かれないようにひっそりとギャラリーから出ると駅へと歩き出したのだった。

 

AM4:30

郵便局ATMの自動扉の前座っていた男の姿は無く代わりに出来た大きな血溜まりが男が存在していた証明だと言わんばかりに床一面赤黒く滲んでおりその脇に警察の自転車が一台ポツンと佇んでいる、男はあの後血を吐きぶっ倒れてしまった為僕は110番をして男を保護する様に頼んでいたのだった。あの男は栗で出来た酒のエスプレッソ割だと云う代物を延々と飲み続け誰にも見つからない様にと「art&river bank」からひっそりと出て行った十数年前の自分の片割れなのかもしれない、未だに「ゲージュツ家になる。」と、くだを巻き酒を飲み続けた自分の片割れの成れの果てがパラレルワールドから僕に会いに来たのではないだろうか?なんて下らない事を考えながら帰り仕度をしているとポツンと佇んでいる自転車の元へ若い警官が一人戻ってきた、僕は自分がさっき110番した者だと伝えると警官に男の安否を確認した

「男は救急車で病院へ行った。」 

若い警官は素っ気なくそう言うと自転者に乗って暗がりの町へと消えて行ってしまった。

 

翌日多摩川駅前郵便局ATMの自動扉の前の床にあった赤黒い大きな染みは綺麗に無くなっていた、そんな事実は一切無かった。と言わんばかりにピカピカになった床を眺めながら僕はあの男の事を考えていた、あの男は死んだのだろうか?それともパラレルワールドへ帰って行っただろうか?しかしそんな事はどうでもいい事だ、最終電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえると数名の乗客がいつもの様に駅からそれぞれの帰る場所へと帰って行く、そして僕もまた昨日と同じような今日が始まるだけなのだ。