JRAには金を預けているだけ!

競馬日記。主に3連単フォーメーション

2019年の夏の話

7月後半学校の夏休みが始まると息子は二週間ほど静岡の裾野に住んでいる僕の両親の元へ口減らしに出されていた。その両親から妻の元へ度々届くメールは毎日BBQだの花火だのバナナワニ園だのまるで一面のケシ畑のど真ん中に佇むアヘン中毒者の如く幸せハッピーな生活を送っている彼の様子を報告してくれていた。

8月に入り現場に空きが出た僕は一日休みをもらうとその前日の仕事が終わるとそのまま一路幸せの真っ只中にいる彼を現実世界へ引き戻す為裾野へと向かったのだった、代官町の入口から首都高に乗り3号線を経由し東名高速へ平日の夜間とあって快適なスピードで車を進めると僕は途中海老名のサービスエリアで休憩を取る事にした。車を降りるとムワッとした熱気が体にまとわりつき額や首筋にじんわりと汗が滲む、僕はここで軽く食事を取ろうかと考えていたのだが腹を満たし眠気に襲われる事を懸念し食事は諦めコーヒーと土産を買う為売店へ向かった、売店は何処かの大会からの帰りなのだろうか?山梨学院高校と書かれた黒い揃いのジャージを着た数十人の集団に占拠されており僕がその通路一面に散らばる黒いジャージ姿の分隊を避け縫うように売店の通路を歩きやっとの事で缶コーヒーがある冷蔵庫の陳列棚に辿り着くとそこに黒い揃いのジャージを着た一組の男女が楽しそうに何かを選んでいるのが眼に映った。

「タピオカ飲んだ事ある?」

女がきっとタピオカミルクティーであろう茶色い液体の入ったプラスチック製の容器を手に取り男に尋ねると、

「いや、ない。だってマズそうジャン」

男がニヤケヅラでそう答えている明らかに他の黒いジャージの分隊とは様子の違う正に二人の世界が萌芽し始めているといった男女の瑞々しいやり取りを眺めていると僕は軽い嫉妬心がフツフツとみぞおち辺りから湧き上がって来るのを感じた、確かに自分にもこういった瑞々しい萌芽の時代があったのかもしれない、しかし今は昔僕に繁っていた瑞々しい枝葉は今やすっかりと枯れ果てその湿度を失いカサカサになった一葉一葉のハラハラと落ちていく様をなす術もなく眺めている老木となってしまった、そしてその今まさに落ちようとしている枯葉の先に瑞々しく萌える若い木々が群生しているのが見える、僕がその若い木々の群生を嫉妬をもって覗いているように若い木々の群生もまた僕を、僕の老いぼれた枝にかろうじて存在する枯葉の落ちて行く瞬間を哀れみながら覗いているのだ。

 

缶コーヒーを買い再び車を走らせ裾野にある実家に着いたのは22時を少しまわった頃だったが息子は寝ずに僕が来るのを待っていたようで僕に会うや否やその幸せに満ちた桃色の唇を震わせ今日まであった幸福の日々を事細かく伝えてくれた、息子の話を聞きながら缶ビールを呷っていると尋常じゃない眠気に襲われたので未だ寝る気配のない息子を促し二人で和室の客間へ行き並べて敷いてあった布団へ潜り込むと僕は依然として続く息子の話に適当な相槌を打ちながらさっさと眠ってしまったのだった。

翌朝暇に飽かせ行ったゴルフの打ちっ放しから帰ったのは昼に少し足りない頃だった、

「ご先祖さまは馬に乗って来て牛に乗って帰るんだよね。」

息子はきっと今し方仕入れたその知識を伝えたくてウズウズしていたのだろう僕の顔を見ると得意顔でそう言い彼が今しがた作ったのであろう茄子の牛と胡瓜の馬を見てくれと仏間に僕を連れていった、その日は午前中に棚経があるとのことで母もまた坊さんが来るのが先か僕の帰りが先かとウズウズしていた様だった、仏間へと引っ張られた僕は仏壇に並んだ彼の作品を一瞥すると仏壇の上方の壁に並べて掛かっている祖父と祖母の写真を眺める、祖父は僕が2歳の頃に亡くなっているので僕は祖父に対する記憶が全く無いのだが法事などで親戚に会う度

「お前はアキラさん(祖父)に似ている、本家筋の顔だ。」

と、言われる度に柔かに微笑む古い祖父の遺影にそこはかとない懐かしさを覚えるのだった。

祖父は栃木県の氏家にある庄屋の長男だったらしい、「らしい」と云うのは祖父は祖母と結婚するにあたりそれを

「家柄が違い過ぎる!」

と、猛烈に反対され本家から勘当されると祖母の地元である裾野に移り二人で暮らし始めたと云う事なのだそうだ、つまり祖父と祖母は駆け落ちをしたと云う事だ。しかし昭和初期と云う時代に栃木で暮らしていた祖父と静岡で暮らしていた祖母はどうやって知り合ったのだろうか?然も家柄が違うと言われる位なら家同士の付き合いもなかったであろう男女がインターネットも無い時代に?そこにどんな物語が存在したのか今となってはもうわからないが祖父は確かに故郷と家を捨て祖母を選び静岡の裾野と云う土地にその根を下ろしたのだ、もしも祖父が祖母と一緒になる事を諦めていたら僕は存在していないだろう(変わりにもっと程度の良い人間が生まれていたかもしれないが)僕はそう云った偶然の様な必然の積み重なりの末に今こうして柔かに微笑む祖父の遺影の前に息子と共に立っているのだ。

結局棚経が終わったのは昼をだいぶ過ぎた頃だった、僕は家に帰るのが遅くなり途中渋滞にハマることを危惧し両親に

「昼飯を食べに行こう、そしてそのまま帰る。」

と、提案をするとそそくさと帰り支度を済ませ息子を助手席に乗せると沼津港へと車を走らせた。

うだる様な真夏の太陽が容赦なく世界を照らし車の車外温度計は外気温が38度だと僕に伝えている、港へ続く一本道は慢性的に渋滞をするらしくトロトロと歩みの様なスピードで目的地を目指す、僕は少し焦れながらその一本道の広い歩道へ目をやると白いワイシャツと黒いズボン黒いスカートを纏った学生であろう男女の一つの自転車の集団が珍走しているのが見えた、各々満面の笑顔を汗だくにしてはしゃいでいるその集団を眺めていると昨日の夜僕が海老名のサービスエリアで抱いたものに似た微かな嫉妬心が僕の中に芽生えてくるのを感じた。

確かにこう云った時代が僕自身にもあった、高校の陸上部だった時分ただひたすらに走りそして仲間たちと汗だくになり笑いあった日々はしかしながらはるか彼方もうそれは目には映らないほどの遠くへと行ってしまったのだ、そしてエントロピーが増大するという物理の法則が崩れない限り僕はそこへは戻れないしエントロピーの秩序を打ち破り僕が過去へ行けるようになったとしても僕はわざわざそこへ戻ろうとはしないだろう。僕は冷房を効かせた車を運転し暑そうな外界を眺め汗だくになり珍走する集団を「若いなぁ。」と思う程に老いてしまったのだ、しかしながら助手席で早く着かないかと不機嫌そうに座っている息子はどうだろうか?その不機嫌な眼差しの先には輝かしい未来が待ち構えている、彼は近い将来あの白いワイシャツの珍走する自転車の集団のように友人たちとはしゃいだり又は、ひとりの女性に対し淡い恋心を抱いたり失恋をしたりするのだろう、僕がもう失ってしまい二度と手に入れられないものを息子は全て持っている、僕は不機嫌そうに助手席に座る彼にさえ微かな嫉妬心を抱いているのだった。

沼津港へ着いた僕たちは適当な定食屋に入ると息子は3000円のマグロ尽くしなるものを注文し大トロの寿司を2貫と中トロを2貫食べ赤身を1貫食べたところでもういらないとほざいた、彼はそうやって食べ物の美味い所を食い終わると後は残すという大変罰当たりな性格なのだ。その後土産物屋を矢継ぎ早に物色し駐車場に戻ると両親と別れ沼津インターから家へと車を走らせる、こう云った別れのセレモニーで息子は常に両親に対しては気丈な振る舞いをして走り出した車の中でひっそりとおセンチな感情を吐露してきたのだが今回はそんな風もなく助手席に座るとスッと眠ってしまった、僕は少し意外に思ったのだがそんな彼の少しずつ成長していく姿を目の当たりにすると親としての喜びを感じたのだった。

僕は車のステレオを極力小さい音にして中村一義のアルバム「金字塔」を流しながら未だに高く青い空を眺め僕はふと数十年先のことを思った。いつか僕の息子にも子が出来てその子にも子ができる、そしてその僕の孫と曽孫が僕の遺影の前に立ち孫はそこはかとなく似ている僕の遺影に親近感を覚える、かもしれない。そん時果たして彼等の未来はどうなっているだろうか?少なくとも僕の子や子の子が幸せに暮らせる事を、そしてこの世界が安定して継続している事をただ願うばかりだ。

一時間ちょっと走り東京インターから首都高へ乗り継ぐ多摩川の橋に差し掛かった辺りで息子は起き出し

「ハラヘッタ、マダツカナイノ?」

と、ほざき出した。僕はマグロの寿司をちょちょっとつまんでもうイラネェをした事を思い出し少しカチンときたが今更あーだこーだ言っても仕方がないので

「アト30分くらいで着くから、家ついたらペペロンチーノ作ってやる。」

と言い彼をなだめると少し車のスピードをあげ帰路を急ぐ、僕の祖父が望んだ未来はどんな未来かはわからないが「じいちゃん、僕はそこそこには暮らせてます。」今度祖父の遺影の前に行った時にはそう報告しようと思う。

 

 

 

旅をすると云う事は行った先に旗を立てると云う行為だ。ってぼのぼののお父さんは語った

春から小学3年生になる息子の部屋を作るために家の中を片付けていると天袋からズッシリと重たい小さいダンボール箱が出てきた、段ボールを床に下ろし中身を確認すると「写真家になる!」と、のたうち回っていた頃の写真が大量に出てきた。大掃除だとか模様替えの時に昔のアルバムなんかを発見すると大抵碌な事にならないのだが、今回も例に漏れず作業は中断し僕はその小さな段ボールの中身を吟味し始めてしまったのだった。

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無地良品のクリアアルバムをパラパラとめくっていると一枚の写真が目についた、小川に沿って咲く桜の木々が一点透視図の消失点へと収束している、そして写真の余白には日付であろう数字の羅列が書かれている、恐らく2007年の春であるらしい写真を手に取り此処は何処だっただろうかと更に小さなダンボールを漁っているとA5サイズ程の一冊のノートが出てきた、ノートをパラパラとめくるとヘタクソな絵と死ぬ程恥ずかしい詩のような言葉の間に一枚の切符が挟まっていた、その切符は2007年の春に僕が青春18きっぷを使い旅をしていたと云う事実を教えてくれた。

 

2007年28歳になる年僕はかなり煮詰まっていたハズだ、写真学校もとっくに卒業をしキチガイの女から逃げて僕はゲージュツ家にも社会人にもなれず銀座のハンバーガー屋のバイトと高圧洗浄屋のバイトをしながら糊口を凌いでいる状況だった、これからの未来に一寸の光も見えない暗闇!それは今まで色んなモノから逃げながら退路を塞ぎ辿り着いた言うならば絶望と言う名の岬、そして僕はその岬に立ち真っ暗な大海原に手漕ぎボートを浮かべボートに乗り込む用意をしている、しかし今日は少し寒いだとか今日は天気が悪いだとか今日は仏滅だとか色々ケチを付けてボートに乗り込もうとはしない、本当は暗い海の向こう側に何があるのかなんてわからないし知りたくもない漕ぎ出す気もないボートに乗る振りをしてひたすら絶望に立ちすくむ臆病な人間だったのだ。

 

そんな僕のささやかな楽しみと云えば年に三回発売される青春18きっぷを使い貧乏旅行をする事だった、「青春18きっぷ」なんて名前だがその切符は18歳でも青春でもない人間が買っても問題はなく期間内の五日間であればJRの普通電車乗り放題になると云うスグレモノなのだ、僕にとっては宛ら絶望28きっぷとでも呼びたくなる様なその切符を握りしめ2007年の春僕は一人福岡を目指していたのだった。

青春18きっぷを使い西日本方面へ向かう場合僕は先ず京都に向かう事にしていた、それは京都には高校の同窓である「ネジン」が住んでいるので宿泊に困らないと云う点と京都からだと山陰方面山陽方面紀伊半島中部地方とどこにでも出やすいので「先ずは京都。」と、貧乏旅行の始まりは始発の東海道線に乗り込みひたすら京都を目指す事から始まるのが常であった。

京都駅には15時頃到着した、延々と電車に乗っていた僕はその窮屈な車内から飛び降り駅のロータリーに出るといつものように京都タワーが眼前に映る、京都タワーは「おいでやす〜。」と僕に囁いてくれている様な面持ちでいつもそこに佇んでいるのだった。夕方に「ネジン」と合流すると飯を食い銭湯に行きネジンの部屋でドラクエⅢをやるのがいつものルーティンだった、ネジンの所有するドラクエのカセットには僕のセーブが存在しており京都に行く度にチマチマと魔王征伐の為の旅を続けるのだが年に数回数時間ずつしか進まない勇者「かにまる」の旅は遅々として進まず寧ろそのファミコンの古いカセットのセーブデータが消えていない事が奇跡の様な存在であった。

「明日は始発に乗って鳥取方面に行く。」僕がドラクエをやりながらネジンにそう言うと

「俺も行く、余部陸橋が新しくなるから今のうちに渡っておきたい。」と、やや鉄の入った発言をしたので僕達は翌日一緒に旅をする事にした、宛ら勇者「ぼく」と僧侶「ねじん」と云った感じであろうか?勇者「ねじん」と遊び人「ぼく」だろうか?目的は余部陸橋を渡り鳥取で海鮮丼を食う、魔王討伐と同じ位素晴らしい目的だ。

翌日白み始めた静かな朝の街を僕達は二人京都駅を目指し歩く、ねじんの家は五条烏丸にあり京都駅へは歩いて10分程で着くのだった。山陰本線のホームは京都駅の一番隅っこにありそこから2両編成の電車に乗り込む、福知山での乗り換えで朝食をとり再度電車に乗り込む時にねじんが進行方向から右側の椅子に座ろうと言ったので僕達は右側のボックスシートに向かい合い座る事にした、電車は城崎温泉を過ぎると右手に海を見ながら走る、ひたすら青い日本海が銀色の波の背を幾重にも列ね遠く空に吸い込まれていく、窓の外はひたすらに青かった、ねじんはきっとこの景色が見たくて右側に座ろうと言ったのだろう、しばらく僕達はその青を眺めていた。

余部陸橋を渡り鳥取に着き海鮮丼を食った僕達は魔王討伐を果たした勇者の如く誇らしいエンディングを迎えていた、

「帰りにまた寄らせてもらうカモ。」

鳥取駅のホームで僕はねじんにそう伝えると軽く敬礼をして電車に乗り込む、僕がシートに座り窓の外に目をやるとねじんがニヤリとした顔で敬礼を返してくれていた、ねじんは明日からの仕事の為に京都へ戻り僕は福岡を目指す、その為僕達はここで別れる事となったのだ、暫しの別れのセレモニーを堪能していると電車は走りだし再び窓の外に海があらわれる、その青が緋色そして濃紺になった頃僕は松江に着いた。

鳥取駅で「また寄らせてもらう『カモ』。」と、ねじんに曖昧な言い方をしたのには理由があった、それはこの旅の最終目標が「福岡に行き『さとちゃん』に求婚をする。」と云うことにあった。さとちゃんは写真学校の同級生であったマイコの高校時代の同級生であり一度さとちゃんが研修の為に上京した際に日吉にあったお好み焼き屋「王将」で飯を食っただけの仲であったが

「今度福岡まで行くからそん時は案内して下さい。」と、別れ際にお願いした僕の言葉を快諾してくれており翌日にその約束を取りつけていたのだった、そして求婚が成功したら福岡で仕事を探し福岡で暮らそうと僕は本気で考えて旅を始めていたのだった。

明日さとちゃんに会うのに野宿はマズイだろ、と考えた僕は松江駅に着くと安いビジネスホテルに宿を取り飯と風呂を済ませると早めに寝ようとベットに潜ったがなかなか寝付けない、そこで僕は1000円分のテレビカードを購入すると部屋に戻りテレビガイドを眺め「浣腸学園」なるタイトルのアダルト番組を見る事にした、「浣腸学園」は良い子悪い子普通の子みたいな三人の女優が浣腸をしながら体育の授業をしたり給食でカレーを食うと云った大変下らない内容であったが僕は「くだらねー」と思いながらいつのまにか眠りについていたのだった。

 

翌朝僕は先ず玉造温泉に向かう事にした、それはねじんとの旅の中ねじんが

玉造温泉は日本最古の温泉だから行っておいた方が良い。」と、薦めてくれたからだった。駅に着くと構内にあった地図付きのチラシを一枚手に取り温泉街へと歩く、空は一面青く木々は緩やかな風に若葉を煌めかせる、花々は思い思いの色を纏いその景色を鮮やかに縁取っている、辺りは噎せ返るほどの春だった。大きく右に曲がる緩い下り坂を抜けると右手に保育園を見ながら道は小川にぶつかった、僕はその小川に架けられた小さな石造りの橋の上に立ち川沿いに立ち並ぶ満開の桜を見ながら園庭で遊ぶ子供たちの声を聞いているとこれからの事が全てうまく行くような気がした、これからさとちゃんに会い僕は福岡で新しい生活を始める、子供ができたらみんなでこんな桜の咲いている小川の土手などに弁当を広げ花見をする…そうこれからは今までの物を全部捨てて新しく真っ当に生きていこうじゃないか、路傍に咲く名前も知らぬ花を美しいと思うように生活の隅々にある小さな幸せをしっかりと踏みしめながら生きていこうじゃないか。僕はそんな事を思いながら2007年3月28日その小川の土手で写真を撮ったのだ、それから温泉街に行き日帰りの温泉へ入ろうと思ったのだがまだ朝早かったために温泉は営業前だった為僕は温泉を諦め来た道を駅へと戻ったのだった。

関門海峡の長い(長くない)トンネルを抜けると福岡だつた”、さとちゃんから来たメールには「19時に薬院駅」と書かれていたが博多駅にはそれには幾分早く到着した、そんな事だったらもう少し待って温泉に入ればよかったなぁと思いながら僕は西鉄線にのり薬院駅へ向かった。高架駅の階段を降り駅前にあった不動産屋に貼り出してある物件に目を通したりしながら僕は19時を待ち遠く思いながら薄暮れの街をアテもなく歩いた、道行く人たちはきっといつもの様にいつもの生活をしているのだろう、僕だけが今人生の分水嶺に立ち希望と絶望の峰を歩いている、そんな事を考えひたすら街を歩いた。

さとちゃんは大学で心理学を学び今は学校のカウンセラーをしており彼女曰く「ロジャース派。」と、云う大変学の高い女性だった。一度しか会ったことのない男が東京から貧乏旅行をしながらやって来ても嫌な顔もせず会ってくれたのはきっと彼女の生来の根の優しさにあったのだと思う。僕達は約束の時間に落ち合うともつ鍋屋に入った、そこで僕はもつ鍋を食いながら今日までの旅の事、今人生で煮詰まっている事、そして今までの物を全部捨て新しい所で生きたいから一緒になってくれ、満開の桜の咲く小川の土手で花見をしようじゃないか!その為にここにきたのだ、と、さとちゃんに伝えた。彼女は終始笑顔で僕の話を聞いてくれたのだが

「一度しか会った事のない人に求婚されてもそれは困る、何もかも捨てて誰も知らない場所で生きていくのは一人でもできるんじゃない?」

と、至極真っ当な事を言った。そうだ、僕はきっと求婚が成功し『たら』とか何々でき『れば』とかいろいろ理屈をつけて何もしてこなかった人間なのだ、さとちゃんはそう云う僕の質をすでに見破っていたのだろう、さすがカウンセラーである。

さとちゃんと別れると僕は失意のまま博多の駅へ歩いて向い駅前のネットカフェに入った、旅の目的を失った僕はここで仮眠をし明日大分まで行き大分港から神戸行きのフェリーにのり神戸から青春18きっぷの最後の1回を使い東京へ帰る事にした、ネットカフェで時刻表などをメモしこれからの行程を確認すると僕は仮眠のため狭いブースの中で横になったのだがなかなか寝付けないでいた、福岡に来れば何かが変わると思っていたが何も変わらない、どこにも行けず何もできない自分へのそのやるせない空しさを抱えたまま結局一睡もできずに朝を迎えたのだった。

大分港へ向かう道半ば僕は小さな無人駅で電車を降りた、特に何かあった訳では無いのだが寧ろあまりにも何も無いのが気になって下車をしてしまったのだった。名前は失念してしまったがその駅の駅舎であろう小さな小屋は大工のおっさんが半日もあれば作れそうな造りで券売機も改札もなくそれが駅だとは俄かには信じられない程であった、駅の周りを小一時間程歩いたが本当に何もなかったので僕は散策を諦め駅に戻りホームに腰をかけ次の電車を待つ事にした、向こうに見える山の緑を眺めながら昨日さとちゃんが言った「何もかも捨てて誰も知らない場所で生きていくのは一人でできるだろ」と云う言葉を思い返す、きっと僕が本気であればこの駅に留まりここで木こりにでもなって一人で生活だって出来るはずだ、しかし僕にそんな根性や決意など到底持ち合わせていないのだった!つまりこの旅の決意など所詮そんな程度の薄っぺらい物だったのだ。僕は絶望と云う岬に立ちボートを浮かべているわけでもなく人生の分水嶺に立っているわけでもなく実は全く平坦な道の真ん中でなんか無いかなぁと立ち止まっている間抜けな男だったのである。

2019年息子の為に片付けをしていた僕によって発見された2007年の桜の花はきっと今年も変わらず咲いているだろう、僕はあん時よりも少しはマシになっているだろうか?僕はその写真を額に入れ息子の部屋に出来た真新しい机の上に置いてみたがすぐに息子ののザクⅡに追いやられ僕の手元に戻ってきてしまった、今度家族みんなでこの土手で花見をしようじゃないか!再び手に戻ってきた写真を眺めそう思ったのだった。

 

 

 

AM1:15多摩川駅

多摩川駅前にある郵便局ATMの自動扉の前で男が青白い顔で座り込み動かなくなっている、泥酔しているのだろうか?ダラリと伸びた手先が小刻みに震えているのを見るとどうやら男は生きているらしい。

終電車がホームへ数名の乗客を吐き出す、若いカップルは腕を組みとろとろと、仕事帰りだろうか?黒いコートの男は俯き加減早足で、酩酊状態の白いロングコートの女は駅員に何か文句をを言うとフラフラと、誰も男には一瞥もくれずにそれぞれがそれぞれの帰る場所へと帰って行く。

辺りは静寂に包まれる、しかしそれも一瞬の事。発電機がけたたましく静寂を破ると僕等は床を斫り便器を切削する、初電までの3時間ノンストップで作業は進む。年が明け僕は某急電鉄の旅客駅にある和便器を洋式化する工事に従事している。

 

多摩川駅の近くには「art & river bank」と云うギャラリーがあった、いやまだあるのかもしれない。そしてそのギャラリーは「スギタアツシ」と云う人物が主催者だった、いやまだ主催しているのかもしれない。

「スギタアツシ」は僕が写真学校の2年生の時「現代美術」の講師だった人物だ、女子美で教授だか准教授だかをやっていて美術評論では有名な人物だと云う事だったが薄暗い教室でプロジェクターを使ってホニャララホニャララと語るその授業は日中は労働に勤しむ夜間の苦学生には貴重な睡眠時間でしかなく例に漏れず僕も激しい睡魔と戦いそして敗北を繰り返していたのだった。きっとスギタアツシもこんなアホな人間達に高尚な授業を行うと云う行為はただ金の為だけであって、豚に真珠猫に小判馬の耳に念仏と思っていたに違いない。

ある日の授業でスギタアツシは

「旅をテーマに作品を制作して下さい、夏休みの課題です。」

と、低俗な僕にでも分かる言葉で語られたのだった、その年はやたらと梅雨明けが遅く7月になっても肌寒い日が続き夏休みといっても学校が無いだけで日中の仕事が無くなる訳でも無い僕にとって「夏休み」と云う単語を聞かされても何の実感もなく、ただメンドくさそうな課題を課せられただけの消沈した気持ちにさせるその言葉に続きスギタアツシは

「僕は夏休みにポルトガルからヨーロッパのアートフェスを廻る予定です。」

と、いった類いの台詞を吐いた為、僕はボロのべべを羽織り痩せた土地を耕す小作農を営む賤民階級でありスギタアツシはピカピカのおべべを身にまといその小作農民から徴収した野菜を「不味い!」と言いながら食い散らかす庄屋様であると云う、現代社会に於ける古き階級制度の名残を切実に実感したのだった。

 

夏休みなると僕は写ルンですを購入しソレを当時職場があった品川駅に出来たばかりの新幹線のホームに居た外国人ファミリーに

「これから行く先々で写真を撮って送り返してくれ、学校の宿題なんだ。」

と書いた手紙と一緒に手渡した。そして数週間後送り返されてきた写ルンですを現像に出し名も知らぬ外国人ファミリーの旅先でのスナップショットを写真屋がくれたプーさんのアルバムに差し込み僕はソレをスギタアツシの夏休みの課題として提出したのだった。

夏休み明け最初の現代美術の授業はスギタアツシが夏休みの課題を個別に評論してやるぞ、と云う大変有難い授業だった。順番が来て呼ばれた僕はスギタアツシが居る部屋の扉を恐る恐る開けた、スギタアツシは僕の顔を見ると表情を強張らせため息をつきながら僕に椅子に座るようにと促した、僕は何か嫌な雰囲気を感じながら椅子に座るとスギタアツシは机の上にプーさんのアルバムを置き

「最高につまらない、評価するに値しない。」

と強い口調で言った、僕はその辛辣な言葉に動揺し何も言えなくなってしまうと終始俯きスギタアツシがヨーロッパで購入したのだろうか?かなりエスプリの効いた幾何学模様のシャツの柄をひたすら目で追い現実世界からの離脱の旅を始めていた、論評は恐らく5分もかからず終わったのだろうが僕にとっては月面にタッチして地上に戻る旅を終える程長く感じたのだった。

僕が月面にタッチをして教室に戻ると「クニイくん」がスギタアツシに絶賛されたと話題になっていた、「クニイくん」は昼は運送屋で働きデスメタルバンドを演っている長瀬智也に似たかなりイケメンの同級生であり入学して直ぐ僕の目の前に座っていた事もあり割と仲の良い人物だった、僕はクニイくんがどんな作品を提出したのだろうかと気になり外でタバコを吸っている彼の所へと向かった。

「よう、どーだった?」

クニイくんの方が先に僕に気づくとタバコをふかしながら笑ってそう言った、

「散々、クニイくんは絶賛らしいじゃん。」

僕がそう云うとクニイくんは手に持っていたA4程のサイズの茶色い封筒を僕に渡してきた、封筒の中には鏡が一枚だけ入っておりその真新しい鏡は今しがた月面旅行を終えたばかりの冴えない男の顔を映し出していた。

「これ?課題」

僕がそう尋ねると

「めんどくセーからそれ買ってきて出した、テメーのダッセー顔でも眺めてろよなぁ。」

クニイくんは笑いながらそう言いうと僕の手から封筒を取り返し

「俺アイツ嫌いなんだよね、くだらねー」

と言いながら勢い良く封筒をゴミ箱に投げたのだった、ゴミ箱に叩きつけられた鏡が封筒の中で割れる音を聞くと僕もクニイくんにならいプーさんのアルバムをゴミ箱に投げてみることにした、アルバムはバサバサと音をたてながら力なくゴミ箱へと吸い込まれていく。ゴミ箱の中で「評価するに値しない」と最低の評価を頂いたプーさんのアルバムと絶賛されたクニイくんの課題が仲良く寄り添っている様をぼんやりと眺めているとさっきまでの消沈した気分はどこかへ消えていったのだった。

 

「コッチ!早く!」

気狂いの女がそう発声した音は閑静な住宅街に不協和音の様に響く、しかもその不協和音が自分に対して発せられた音だと思うと僕は辟易とした気分になった。多摩川駅を降りて多摩川の堤に沿って5分程歩くと道沿いに2階建の古い建物が現れる「art&river bank」はその建物の2階中央辺りの一室にあり、気狂いの女は建物から表の通りに面した共用通路の横桟手摺から身を乗り出し僕に叫んでいたのだった。

気狂いの女は僕の同級生で僕達が2年生に上がる頃に僕の部屋に転がり込んで来た女だった、女はスギタアツシにかなり傾倒しており

「スギタアツシに認められればアーティストとしての道が拓ける。」

と信じてやまなく事あるごとに「art&river bank」に足を運んでは

「私もいつかココで個展するんだ。」

と鼻息荒く語るのが常だった。

その日も「art&river bank」で年末恒例で行われている「depositors meeting」とか云う大層意識の高そうなイヴェントがあり、気狂いの女が

「私たちも参加しよう、お前も参加しろ。」

と、言ってきたので僕はアルバイトが終わると電車に乗り仕方なくギャラリーへと向かったのだった。

ギャラリーの中には本棚が並び本棚には様々なアーティストのファイルが刺さっている、イヴェントはオープン参加型のファイルイヴェントと云う事で僕達も事前にギャラリーへファイル形式の作品を提出しており僕のファイルも気狂いの女のファイルも等しくその本棚のどこかにひっそりと刺さっていると云う事だった。僕はギャラリーに着くとポルトガルの栗で出来た酒のエスプレッソ割だという代物を注文し賑やかなギャラリーから外へ出て先ほど気狂いの女が身を乗り出し僕に向かって叫んでいた共用通路の横桟手摺にもたれかかり表の景色を眺めていた、多摩川にかかる鉄橋の上を数分おきに電車が行き来するのが見える、その電車の四角く光る窓に映る人影の一つ一つをぼんやりと目で追っているといつか僕があの電車に乗り写真家になると意気込み多摩川を渡った日のことが脳裏に浮かんだ、夏の色濃く繁茂する土手の緑を眺めながら空っぽな希望を胸に多摩川を渡っていった僕の人影を今の僕と同じようにここから眺めていた人があったかもしれない、そんな事を考えていると今僕が眺めている電車の窓に映る人影の全てはあの時の自分ではないだろうか?と云うあんぽんたんな錯覚に陥っていたのだった。

それから栗の酒のエスプレッソ割だと云う酒を僕は何杯飲んだだろうか?相変わらず賑やかなギャラリーの中では陽気そうな人びとが各々気に入ったファイルを手に取り眺めている、きっと僕のファイルは誰の目にも触れずその本棚の奥へ奥へと追いやられているのだろうと陰鬱な気持ちでそんな様を眺めていると

「最高につまんない!評価するに値しない!」

と、夏休み明け最初の授業でスギタアツシが言い放った言葉が突如僕の頭の中でイかれたレコードプレイヤーの様に繰り返し鳴り響いてきた。僕はきっと酷く酔っ払ってしまったのだろう、行くあてのない物悲しい気持ちになると丁度空になったグラスをギャラリーのカウンターに戻し誰にも気付かれないようにひっそりとギャラリーから出ると駅へと歩き出したのだった。

 

AM4:30

郵便局ATMの自動扉の前座っていた男の姿は無く代わりに出来た大きな血溜まりが男が存在していた証明だと言わんばかりに床一面赤黒く滲んでおりその脇に警察の自転車が一台ポツンと佇んでいる、男はあの後血を吐きぶっ倒れてしまった為僕は110番をして男を保護する様に頼んでいたのだった。あの男は栗で出来た酒のエスプレッソ割だと云う代物を延々と飲み続け誰にも見つからない様にと「art&river bank」からひっそりと出て行った十数年前の自分の片割れなのかもしれない、未だに「ゲージュツ家になる。」と、くだを巻き酒を飲み続けた自分の片割れの成れの果てがパラレルワールドから僕に会いに来たのではないだろうか?なんて下らない事を考えながら帰り仕度をしているとポツンと佇んでいる自転車の元へ若い警官が一人戻ってきた、僕は自分がさっき110番した者だと伝えると警官に男の安否を確認した

「男は救急車で病院へ行った。」 

若い警官は素っ気なくそう言うと自転者に乗って暗がりの町へと消えて行ってしまった。

 

翌日多摩川駅前郵便局ATMの自動扉の前の床にあった赤黒い大きな染みは綺麗に無くなっていた、そんな事実は一切無かった。と言わんばかりにピカピカになった床を眺めながら僕はあの男の事を考えていた、あの男は死んだのだろうか?それともパラレルワールドへ帰って行っただろうか?しかしそんな事はどうでもいい事だ、最終電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえると数名の乗客がいつもの様に駅からそれぞれの帰る場所へと帰って行く、そして僕もまた昨日と同じような今日が始まるだけなのだ。

 

 

 

 

 

 

東京大賞典ザンス!シェー‼︎

先日家のテレビで「映像の世紀」を見ていた時8歳になった息子が

「このテレビ面白い?」

と、聞いてきた。

「面白いよ、過去を知ると云うのは未来を見つめる時に大切になるんだよ、これからの未来を少しでも良くする為に僕たちはどうすべきか?って事は過去のを知る中にその答えがあるんだよ、だから君もこれから歴史の授業とかあると思うけどテストの点数の為に勉強をするんじゃなくて意義を持って勉強をしなきゃいけないよ。」

とか言ってみたのだが、息子はそんな事はどーでもいいからニンテンドースイッチをヤらせろ!と僕からテレビを奪っていったのだった。

 

テレビを奪われた僕は仕方がないので東京大賞典の予想でもしようとソファーに座り東スポを眺めながら今年の競馬のことを思い返してみた、アーモンドアイがシンザン記念を勝った時こりゃヤベーぞ!と思い、その後のレースは全て軸にさせて頂いた。結局アーモンドアイは牝馬三冠にJCも勝ったのだが僕は桜花賞オークスのショッパイ3連単を取らせて頂いただけだった、他にもルヴァンスレーヴ、ステルヴィオ、ブラストワンピースと3歳世代が秋以降の古馬混合G1を勝ち今年の3歳世代ツエーを見せつけている状況だ。

 

未来を少しでも良くする為に過去を知る!此れは今しがた僕が息子に言った事なのだが、それを考えれば今年の様に3歳世代ツエーの年にこそ今年の東京大賞典のヒントが隠されているような気がした。近年で3歳世代ツエーの年といえばシンボリクリスエスの3歳世代だろう、自身が天皇賞・秋有馬記念を勝ちエリザベス女王杯ではファインモーションJBCクラシックアドマイヤドンとこの年も古馬混合G1を勝ちまくり東京大賞典ではやはり3歳のゴールドアリュールが勝利したのである、即ち今年の東京大賞典は3歳(オメガパヒューム)必勝であると歴史が僕に答えをくれたのである。

 

と、言う事で僕はオメガパヒューム1着固定でケイティブレーブ、ゴールドドリーム流しの2点で勝負する事にしたのだった。

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あざーっす!

今年最後のG1とれて…嬉しいッス

 

 

 

暗室

2001年僕は22歳だった。

 

22歳といえばストレートで大学に入学すればもう4年生になり就職先も決めて学生最後の夏を「キャッホーい!」とでも叫びながら謳歌している頃であろうか?高卒で就職をしていれば社会人も4年目になり仕事にプライベートに充実した生活を送っている頃であろうか?現に高校を中退し高圧洗浄屋になった「ユータ」は既に子ができ結婚をしていた、皆の眼前にはそれぞれ輝かしい未来が待っており皆の眼差しはその眩しいばかりの未来を見つめ爛々としているのだろう。

 

そう、僕以外は…

 

その頃僕はといえば西川口にある青木町公園の近くで「ケロチャン」の家に転がり込み自堕落な生活を送っていた。「ケロチャン」は僕より歳が一つ上でギョロリとした離れ目にでかい口そしていつもりんご病の子供の様に頬を赤く染め西川口にある斎藤記念病院と云う病院でレントゲン技師として働いている立派な女性だった。

 

それから更に一年ほど前の春先の事バイト先の先輩だった「モグタン」と云う女が

「男に捨てられたからその男の家から私の私物を回収する大作戦を手伝って欲しい。」

と、頼んできた事があった、僕はその頼みを快諾すると土曜の朝に当時乗っていたカワサキエストレアと云う単車でモグタンからあらかじめ聞いていた男の家だと云う南浦和の住所へと向かった、指定された住所には細い路地と路地の交差点に接して古い長細い木造二階建てのアパートが立っておりその建物の長手側には僕の背丈ほどのブロック積みの塀が春の心地良い陽の光に眩しく照らされている、この世界の全ての色を混ぜ合わせると反射率18%のグレイになりそれをニュートラルグレイと呼ぶのだそうだが正に僕の眼前にたつその美しいブロック塀はニュートラルグレイの反射率で輝いている、僕はその眠たく耀くブロック塀の脇へ単車を止めヘルメットを脱ぐと同時に周辺の異常に気付いたのだった

 

「んんんー♪んんんー♪んんんーんんー🎶ギャハハハ‼︎ギャハー‼︎」

 

どっかから気狂いの女が季節外れのジングル・ベルの鼻歌をスゲーテンションで歌っているのが聞こえた、眠たいほど朗かな春の町に一抹の不安が走る。男の家だと聞いていたアパートの一階の入り口に一番近い角部屋の扉が開け放たれており気狂いの鼻歌はどうやらその部屋の中から聞こえてくるようだった、僕は既に多少の後悔を感じながらその開け放たれた扉から部屋の中を覗くと玄関に接した台所にある小さな冷蔵庫の中を漁り萎びたレタスをツマミにワインを煽っているモグタンの姿が僕の目に映る、そして想像した通り気狂いのジングル・ベルは彼女から発せられているのを確認するのと僕の多少の後悔は大きな絶望へと変わったのだった。

 

モグタンは玄関に立ちつくす僕を見つけると

「おせーよ!おせー!」と、叫びながら僕に何か赤い布を投げつけてきた

「それやる!」と、僕に投げつけてきたその布は赤い生地に小さい白い花のパターン生地の中々程度が良さそうなYシャツでモグタン曰く去年のクリスマスに男にプレゼントした物だという事だった

「これ貰って帰るべか」

気狂い付き合っていてもしょうがないと、そう思いながらそのシャツを拾っていると奥の部屋から女性が出てきた、ギョロリとした離れ目にでかい口……微妙な訛りは福島の南相馬の訛りだというその女性を僕はその瞬間のうちに「ケロチャン」と、命名した。

結局モグタンは酩酊状態になるまで飲み続けた挙句台所でひっくり返ってしまった、仕方がないのでケロちゃんと僕でモグタンの私物であろう物を片っ端からゴミ袋に詰め込んで外に放り投げる作業を繰り返していると辺りは夕方になっていた、依然モグタンは台所の床に大の字でひっくり返っておりもはや生きているのか死んでいるのかも分からない状態だったのだがケロチャンが「風邪ひくよ」と、言いながら毛布をかけていたので多分生きていたのだろう、僕もモグタンの顔に萎びたレタスを乗っけるとケロチャンに「もう帰ろうよ、家まで送る」と、言いモグタンをアパートに残して二人で表へ出た。

美しく輝いていたニュートラルグレーのブロック塀はいつのまにかアパートの影に包まれ冷たく重たい質感を持って佇んでいた、僕はその脇に止めておいた単車からヘルメットを二つ取ると一つをケロチャンに渡し西川口にあると云うケロチャンの家へと向かい単車を走らせた、途中で「少し寒い。」と言うケロチャンの首にモグタンから投げつけられた赤いYシャツを巻き僕たちは夕暮れの産業道路を南下していく、「バイク気持ちイイ!私も免許取ろうかな。」寒さに震えながらケロチャンはそう言って笑ていた。

 

「家まで送る。」と、言ってケロチャンを家に送った日から一年以上僕はケロチャンの家に居すわっていた、それはケロチャンが「もう帰りなよ。」って言わなかった事が一番の原因だったと思う。その間にケロチャンは二回の引越しを行った、一回目は僕がケロチャンの家に転がりこんですぐの事で僕が飯を作りながら「この台所狭いね。」と、言ったのが発端だった、その翌日ケロチャンは仕事から帰ってくると「引っ越し決めてきたから!」と、僕に言ってきたのだった。どうやらレントゲン技師の仕事には待機というものがあり例えば夜中に交通事故などで急患が病院に搬入されると待機番のレントゲン技師は病院から呼び出されてレントゲンを撮りに行かなくてはならない、従ってレントゲン技師は病院の近くに住めよ、と病院に言われておりその代わりに引越しの費用やら家賃の大半は病院が面倒見てくれると云ったシステムになっているんだそうで、「だから今度は台所の広い家に引っ越すからね!」と、ケロチャンは僕にそう説明をし言ってきたのだった。最初に引っ越した先は広いダイニングキッチンのある洒落たマンションだったのだのがどうやらケロチャンは上の階の住人ともめたらしく半年もしないうちに青木町公園の近くのアパートへと二回目の引越しを行った、アパートは一階が大家さんの家になっていて二階に2DKの部屋が二部屋ある作りになっており道を挟んで向かいには並木四丁目公園と云う広い広場のある公園がありとにかく日当たりが良かった、隣の部屋には小さい子供のいる若い夫婦が住んでいるいかにも若いファミリータイプと云った風情のアパートだった。

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 2001年晩夏の朝僕はそのアパートの窓から外を眺めていた。

開け放った窓から吹き込む風が小さな花柄のレースのカーテンを音も立てずに揺らめかせている、隣の部屋からだろう小さな子供と母親の笑い声が聞こえてくる、窓の外には会社へ向かうサラリーマンだろうか?スーツを着て自転車を漕ぐ男性の姿が目に映る。その吹き込む心地の良い風に吹かれその風に乗って漂う小さな笑い声を聞き、自転車を漕ぎ恐らく会社へと働きに行く男の人を眺めていると僕はとてつもなく巨大なそれでいてまったく実態の掴めないぼんやりとした不安に襲われた。あのサラリーマンが会社に行き仕事をしている間に僕は何をするのだろうか?隣の部屋で小さく笑う子供が大人になる頃僕はなにをしているだろうか?このままずっとケロチャンに甘え自堕落な生活を続ける訳にはいかないんだろう。

 

「そうだ、写真撮ろう。」

 

 絵に才能がないと気付いていた僕は写真ならフイルム入れてシャッター切れば写るし簡単だべ!と、安易な気持ちでそう思いつきケロチャンのノートパソコンを使い写真の学校を検索した【東京綜合写真専門学校】すぐにでてきたそのリンクをクリックすると僕は学校の住所を控えるや否や願書をもらいに電車に乗り学校へ向かった、ラッシュが終わった車内は丁度座れない程度に空いおり僕は扉の前に立ち手すりに掴まり窓越しに流れていく外の景色を眺めながら学校に入ったら学校の近くで部屋を借りよう、それより腹が減ったから先ず飯にしよう、などと考えながら電車に揺られていた。渋谷駅で当時まだ地上2階にあった東横線のホームから桜木町行きの電車に乗り換え多摩川を越え二駅ほど行くと電車は学校のある日吉駅に到着した、駅から降ると僕は街へ挨拶をしながら飯屋を探す街は美しくなんとなく優しく見えた「これからヨロシク!」僕はそう心の中で呟きながら汚い中華屋で昼飯を済ませ学校で願書を貰うと踵を返し電車に乗り込んだ、電車は朝来た道をなぞるようにケロチャンの部屋へと引き返す、ガラリとした車内には残夏の陽が窓枠の形で落ちており僕はシートに座りながらその窓枠の形で落ちている陽だまりの中を木々やビルの影が走っていくのをボーッと眺めていた、そうしているうちに僕の中にあった実態のないぼんやりとした不安はいつのまにか消え去っていたのだった。

 

部屋に戻った僕は願書を書きながら金の事を考えていた、引越しの費用、入学金、学費…実態のないぼんやりとした不安ははっきりとした実態のある不安へと入れ替わっていた、僕は細々と続けていたバイトで貯めた金とこれから貯まるであろう金で初期費用は賄えると思っていたのだがその見通しは全く甘かった、それは「暗室機材を揃えて部屋に暗室をつくる事。」と、別紙で挟まっていたプリントに記載されていた暗室機材代の約30万円と云う金が全くの想定外だったからだ。

「来年から写真の学校に通うことにした。」

仕事から帰ったケロチャンと晩飯を食いながらそう切り出した、夜学に通い昼は働く事、機材を揃えて暗室をつくる事を伝えるとケロチャンは、「じゃぁもっと広い所に引っ越した方がイイね、私もカメラ買って写真撮ろう。」と、愉しそうにそう云うので僕は学校の近くで一人暮らしをする事、を言い出せなくなってしまった。

 

それから僕は細々と続けていたバイトの他に空いている日で同級生のユータが働いている会社の現場があればバイトに行くようにし暗室代を捻出しようとしていた。その日も「雑居ビルの汚水槽を洗うから手伝って欲しい。」と、言われて日曜日の朝5時から歌舞伎町にあるビルの地下で汚水槽を洗っていた、現場は9時過ぎに終わりそのまま帰ってイイよと云われた僕は朝の歌舞伎町に一人立ち尽くしていると、これから一日自由だ!と、思いなんとなく嬉しくなったが金にあまり自由ではない事を思うと悲しくなった。

「そうだ馬券買おう。」

ビルから出てきたホストが酔っ払いの女に殴られている様子を眺めながらそう思いついた僕はコンビニでスポーツ新聞を買うと近くの喫茶店に入りモーニングを頼むとスポーツ新聞を広げた【マンハッタンカフェ】一面にデカデカと書かれていた新聞は菊花賞マンハッタンカフェだと云う事を教えてくれた、僕はマンハッタンカフェを軸に6頭ピックアップしソレを馬連で買うことにし新宿駅南口にあるウインズに向かった、馬券を購入しようとマークシートを記入し券売機の前に立つと【千円以上百円単位】僕の目に呪文のような漢字の羅列が飛び込む、どうした事かと警備員に聞くと新宿では千円からしか馬券が買えないらしく五百円で買おうとしていた僕は後楽園か渋谷に行けばイイよと云う事だった。一瞬渋谷に行くか迷ったが朝が早かった為眠たい僕は買い目を3点に絞り3000円分の馬券を買ってケロチャンの家へ帰りビールを呷るとそのまま眠ってしまった。

 

目が覚めると陽はどっぷりとくれていた、僕はケロチャンからパソコンを借り菊花賞の結果を確認した

馬連2-10¥45000位】

僕はすぐさま財布から馬券を取り出し確認する【2-10¥1000】僕のはっきりとした実態のある不安は一瞬にして吹き飛んで行った、約45万円の払い戻し!暗室の機材が買える!ケロチャンにクリスマスと誕生日のプレゼントも買える、僕はパソコンの光がボウっと光る薄暗い部屋で馬券を片手に小躍りをしていた(と思う)。

 

3月の末僕はユータの運転するキャラバンに乗って春光眩しい多摩川を渡っていた、日吉に部屋を借りた僕はユータに頼み二人で引越しをした、引越しといっても荷物はワンボックス1台に布団と少しの衣類をまとめた程度で後は引越してから色々揃えるつもりだった。荷物を下ろしユータと別れた僕は辺りを散策しようと表に出た、雪柳の花が風に揺れその風がどこからか沈丁花の匂いを連れてきた、近くを流れる矢上川の土手をあてもなく歩く、白モクレンの花は咲き乱れ辺りは噎せ返るような春だった。

夕方になりガランとした部屋に戻ると僕は部屋に電気がない事に気付いた、仕方がないので僕はユニットバスとキッチンの電気をつけ布団にくるまり窓越しに外を眺めていた、明日ケロチャンの部屋に単車を取りに行ったら二人で電気屋に行こう、そんな事を考えながら僕はそのまま眠ってしまった。

 

…今年の菊花賞は戸崎のせいで盛大に外した、そして菊花賞の度に思うのはあの新宿のウインズで迷い10番を消していたら?と云う事、タラレバで物を考えてもしょうがないのだがもしもあの菊花賞が外れていたら僕はケロチャンに甘え西川口に暗室を作りそこから学校へ通っていただろう、そして僕はケロチャンに「才能あるから辞めないで、私が面倒見るから。」とか言われ未だにケロチャンと暮らし写真を撮っていたかもしれない。人生とはなんとも珍奇なものだ、競馬の結果如何で如何様にも変わってしまう、あの時の菊花賞が当たった未来と今とどちらが良かったか?なんてことは永遠に分からないことだ、今年の菊花賞が当たった未来と今と?それは当たった方が良かったに決まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コスモ星丸

今年も夏休みになり僕は某区の学校の改修工事をやっている、夏休みは学校の改修をする絶好のチャンスと云う訳で何処の学校も大小あれ大体工事を行うのだ、実際の所工期自体は11月末まであるのだが学校機能を停止したまま二学期を迎える訳にはいかない、なのでどうしても夏休み中に詰めて工事を行う事になるので学校の夏休みと云うのは特に仕事が忙しくなる、ここ三年程は7月8月に休みを取ったことはない程に忙しい。しかも今年は5校3園の工事をやっている為アホのような工程で仕事をやるハメになってしまったのだった。

 

ある日曜日の夕方に学校の正門の辺りで仕事をしていると

「オイ!オイ!」

と、正門の前でがなる声が聞こえた、どうした事かとそっちに向かうと理科室の骨格標本みたいなガリガリの小さい爺さんが立っており

「オイ!何時だと思ってんだ!ヤメろ!」

と、えらい剣幕で言ってきた、僕はメンドクセーなぁと思いながら

「今?18時ですかね、もう少しで終わるんでスンマセン。」

と、いつも「お前のスンマセンは心無いよなー。」と絶賛されているスンマセンを発すると骨格標本の爺さんは更に大きな声で

「なんだその口の利き方は!休みの日位静かにしてろって言ってんだ!いつまで我慢すればいいんだ!」

と、顔を真っ赤にして叫びながらその骨ばった肩を僕のミゾオチ辺りに当ててきた、僕は普段は大変大らかな質なのだがその時ばかりは日々の忙しさに負け理性を失い

「こっちだって好きで休みの日に仕事してんじゃねーよ!学校の生徒の為に働いてるんだろーが!あんた一人の為に学校の人たちに迷惑かけれねーだろ!嫌ならお前が引っ越せ!」

と、怒鳴りつけながら先程ぶつけて来た骨ばった肩の方に目をやった、爺さんは相当くたびれたTシャツを着ている、そしてそのTシャツには「EXPO’85」と書かれておりその下にはコスモ星丸がいた。コスモ星丸つぶらな瞳が僕を見つめている、「アァ、コスモ星丸。何故そんな所に居るんだい?僕の所へおいでよ!」僕は心の中でそう呟いた、そして今すぐこの爺さんの頭をカチ割りコスモ星丸を救出したい衝動に駆られたのだが僕は分別のある大人だからやめておいた。

 

コスモ星丸は言わずと知れた「つくば万博」のイメージキャラクターだ、どこまで行っても焦点が合わなそうな知性を感じさせないつぶらな瞳、顔の周りに浮き輪の様なものを巻きその浮き輪の上から腕が生えているのだがその腕は自分で用も足せない程短い、そして頭の両サイドからアンテナの様なものが生えその下に星が飛んでいると云ったなんとも珍妙な出で立ちなのだが中々かわいい。そして僕はコスモ星丸に会うたびになんとも言えない郷愁の様な感情を胸に抱くのだった。

 

僕がコスモ星丸に始めて接したのは6歳の頃だったと思う、テレビで曼荼羅の様なコスモ星丸がクルクルと回っているCMが流れているのを僕少年は大変気に入り一緒にクルクルしていたのだった、そして最後に「つくば未来博にコスモ星丸に会いに来て~!」とオッサンの声でナレーションが入る、そうなると僕少年はもう直ぐにでもつくば未来博とやらに行きコスモ星丸に会いたい!と云う気持ちが抑えきれず母親につくば未来博に連れて行ってくれと嘆願したのだった。しかし僕少年には妹がおり然も当時かなり手のかかっていた妹と僕少年を連れてつくばまで行くのは大変しんどい、と母親は父親に頼み僕少年と父親二人でつくば未来博に行くよう提案をしたのであった。

 

2001年の正月に僕宛に僕少年から年賀状が届いた「くりはしけいいさ6さい」鏡文字でかなり汚く自分の名前だけが書いてあるそのハガキはコスモ星丸のプリントされた透明な封筒に入っていた。どうやら僕少年が父親とつくば未来博に行った時に21世紀に自分に宛てて書いた物らしくハガキの表には父親のこれまた汚い筆跡で住所が書かれていた。

実のところあれだけ連れて行け!と騒ぎ立て連れて行って貰ったつくば未来博の記憶は全くないのだった、当時の写真が数枚ありその写真の中で僕少年はにこやかに何かラジコンの様なモノを動かしているのだが、その写真を見てもそのにこやかな僕少年であろう人物は果たして自分自身なのか?全くの別人なのではないだろうか?と思う程に僕の記憶に残っていない、またそれと同様に僕の中にある父親との思い出と云うものは僕の人生の中で極めて希薄なのだ、ただひょっとした隙に僕の目に映るコスモ星丸を見る度僕は少しだけ父親の事を少し思い出す程度だ。

 

コスモ星丸のTシャツを着た骨格標本の爺さんに絡まれた後僕は少し父親の事を考えてみた、今の僕にはあの頃の父親と同じように7歳の息子がありそしてその息子には妹がある、今年の夏も僕は子達と一緒に出かける事は出来なかった、それでも子達は勝手に何処かへ遊びに行っているし放っておいてもどんどん成長するもんだ、僕は働き子達に迷惑かけない程度には給料を取って帰らなければならない。前職を辞めて今の仕事に転職したのも子達に金が必要だと云う部分が一番大きかった、もしも僕が独り身であったならきっと今も前職に留まっているに違いない。

僕の父親もきっと同じだろう、僕や僕の妹の為に一所懸命働いてくれていたのだと思うしそうだったと願いたい。

 

 

「僕がこの世にやって来た夜 

お袋は滅茶苦茶にうれしがり
親父はうろたえて質屋へ走り 

それから酒屋をたたき起こした 
 
その酒を飲み終わるや否や 

親父は一所懸命
ねじり鉢巻死ぬほど働いて 

死ぬほど働いてそのとおりくたばった 
 
くたばってからというもの 

今度はお袋が一所懸命
後家の歯軋り後家の歯軋り 

がんばってボクはご覧の通り
 
丙午のお袋は 

お袋は今年60歳
親父を参らせた昔の美少女は 

すごく太って元気が良いが
 
実は先だってボクにも娘が出来た 

女房は滅茶苦茶にうれしがり
ボクはうろたえて質屋へ走り 

それから酒屋をたたき起こしたのだ 
 
僕がこの世にやって来た夜

お袋は滅茶苦茶にうれしがり
親父はうろたえて質屋へ走り

それから酒屋をたたき起こした」

 

 

高田渡に「系図」と云う歌があるのだが正に僕は今ねじり鉢巻死ぬほど働いている所だ、そしていつか未来僕の子もうろたえて質屋に走るのだろうか?未来の事は分からない、ただ今は子との時間を大切にするように努めたいと思う。

 

 

 

どうでもいいや君

僕がキチガイ女から逃げ出しまた実家に戻ってきた頃僕はそれまで働いていた品川のコーヒー屋の仕事を辞めて銀座のハンバーガー屋で働き始めていた。ハンバーガー屋は個人経営店でオーナーの「ヤジマさん」は写真が趣味だと言っており自分で撮ったニューヨークの写真を額縁に入れて自分の店に飾っていた、写真学校を卒業したてだった僕は結構ヤジマさんに気に入って貰っていた(と思う)。

店は数寄屋橋交差点にある銀座ファイブと云う商業施設の地下1階にあり、僕は家から「志村三丁目」と云う駅まで30分歩きそこから三田線に乗り日比谷まで行きそこからまた10分程歩いて店へ通っていた、即ち片道40分往復で80分僕は歩いていた。そもそも「志村三丁目」駅は最寄駅では無かった、しかしわざわざ30分かけて歩いていたのはただ単に電車賃を浮かせたいが為だった。

ハンバーガー屋は二人掛けのテーブルが十個程の小さな店でランチの売り上げがメインのような店だった、朝店に行くとテイクアウト用の菓子の仕込みをしながらハンバーガーの仕込みをする、ランチの時間はオーナーともう一人と僕の3人で店を回しランチが終わるとヒマな店を回しながら翌日の仕込みや発注をすると云った緩い仕事だった。オーナーのヤジマさんは忙しい時は店を手伝ってくれたが殆どの時間は店のカウンターでパソコンを広げアイスラテを飲んでおり夕方になるとぷらっと何処かへ行ってしまっていた、どうやらヤジマさんは写真が趣味だったようにハンバーガー屋も趣味でやっているようだった。

「夜にお酒が飲めてハンバーガーの美味しい店が僕のやりたい店。でも、僕お酒一切飲めないからクリハシ君お酒考えて。」

ロコモコをランチで出したいからクリハシ君今度ロコモコ作って。」

「カレーバーガーやりたいからクリハシ君カレー作って持ってきて。」

ヤジマさんはいつも突然突拍子も無い事を言い出した、そして僕はその度にイロイロ考えて作って持って行った、ある日究極的に美味いカレーが出来た事がありヤジマさんに食わせた所「美味い!レシピは?」と、大絶賛されたので日を改めて店で同じ様にカレーを作ったのだが再びその味のカレーを作る事は出来なかった、あのひよこ豆とひき肉のカレーは僕の人生中でも一番美味く作れたカレーだったのだが、結局それから一度も作れていない幻のカレーになってしまった。

店は20時も過ぎれば殆ど客足は途絶えていた、たまに上にあるアパレルのおねーさんが休憩時間にお茶しに来たり仕事帰りのサラリーマンが土産にと菓子を買って帰る程度の忙しさだった、僕はいつも夜になると自分の賄いにとハンバーガーを作って食っていた、しかし毎日ハンバーガーばっか食ってても飽きてしまうので家からトッピングを持って来てはソレを使ったオリジナルバーガーを作って食っていた、一度安易な考えで納豆をトッピングした事があったのだが最悪だった、温まり匂いの増した納豆はパティとの相性は最悪だ、何より納豆の自己主張の強さ!マズイ!マズすぎる!と、云った具合に一人で賄いライフを楽しんでいた。そして店の片付けを終えると帰りにはテイクアウト用のデカイプラカップコアントローをダブルにしたコアントロートニックを作りストローでチューチューしながらホロ酔い気分で電車に揺られて帰路につくのが日課になっていた、そして最寄りの最寄りでは無い駅に着くと又、そこから30分程歩くのだが毎日同じ道を歩くのが嫌いだった僕は、いつもどこか帰り路を変化させて夜の街をあっちにフラフラこっちにフラフラと云った具合に歩いて帰っていた。

晩秋の頃だったと思う、夜になって強くなった冷たい風が頬を叩き僕の目は薄っすらと涙目になる、僕はその日まだ当時建設途中だった環八の工事現場の横を通り抜け地元にある公園の中を歩いていた。小学生の頃よく遊んだその公園は山を切り拓いた斜面に作られており小さな滝とアスレチックがあったので当時の僕らからは「アスレチック公園」と呼ばれ親しまれてきた所だった、しかし僕らが遊んでいた頃にあった危なそうな遊具は今はなくなり何の思い出もない目新しい安全そうな遊具が並ぶ「昔アスレチックがあった公園」になってしまっていた、子供達は勿論いない夜の11時はとっくに過ぎている、寒過ぎるからだろうか?青姦カップルもいない、つい先日まであんだけ鳴いていた虫達も一体何処へ行ってしまったのだろうか?「蟻とキリギリス」のキリギリスよろしく空腹に困りじっとしているのだろうか?ただ暴力的な冷たい風だけが僕の目を潤ませる為だけにゴーゴーと吹いている、僕は宮沢賢治の「虔十公園林」の虔十が自分の植えた杉林の中でただ一人はぁはぁと言いながら立っているシーンが脳裏に浮かぶ、そんな気分だった。側から見ればただ阿保そうな男が公園をウロついている、それだけのことなのだが。

公園の斜面を登り少し開けた所へ出るとそこにターザンロープがあった、ターザンロープとは滑車のついたロープにしがみつきガーっと下って行くあれだ、ターザンロープは確か僕が子供の頃にもそこにあった、しかし今僕の目の前にあるターザンロープは当時僕が遊んでいたものではない、その目新しいターザンロープには滑車から伸びるロープの下側に黄色いプラスチック製であろう球体が付いており公園の保安燈がその樹脂製のビビットな黄色を照らしている。そして僕はそのビビットな黄色い球体に乗りターザンロープを満喫した、ガーガーとターザンロープの滑車の音が公園に響く、もしも僕が笑い声でも上げていたら事案になっていただろうしそれは確かに笑い声を上げそうな程には楽しかった、しかし僕は大人だから一切声は発さず黙ってターザンロープを満喫した。二回目のターザンロープを満喫し三回目をやろうかどうか考えていると僕の右耳の方で誰かが囁いた、

「どうでもいいだろ」

「誰!」僕は驚きながら右側に視線を送る、しかし僕の眼に映るのは保安燈に照らされているビビットな黄色い球体だけだ、そしてソレは僕が今し方満喫した為にユラユラと揺れている。僕はそのビビットな黄色い球体の揺らめきがエントロピー増大の法則に従いゆっくりと静止して行くのを確認する、「大丈夫だ、この世界は正常だ。」そんな事を考えていると今度は頭の上の方で誰かが囁いた、

「どうでもいいだろ」

僕は咄嗟に自分の頭上の方へ目をやる、強い風のせいか星がいつもより瞬いて見えた、そして僕はその星の瞬きを見ながら呟いた、

「どうでもいいやナァ」

そうして僕は三回目のターザンロープをする事なく帰路についた。

 

その日以来ぼくは一番最短の道を選んで家へ帰るようになっていた、賄いのトッピングを愉しむ行為もやめた、当時付き合い始めていた「ナオちゃん」への連絡も一か月程滞っていた頃ナオちゃんを紹介してくれた「ウチダ」に呼び出された、ウチダと僕は中学、高校の同級生でウチダとナオちゃんは大学の同級生だった。

「全然連絡くれないってナオちゃんに相談されたんだけど?」ウチダは少し怒っていたように感じたが僕はそんな事はどうでもいいので

「どうでもいいやクンに取り憑かれた。ほっといてくれ。」

と、言った。

「ドウデモイイヤクン?何ソレ?」

池袋駅地下のアゼリアロードに寝そべっている家の無いオジサンを見るような目でウチダが僕を見る。そうだ、どうでもいいやクンに取り憑かれたらどうしようもないのだ!「どうでもいいや君」中々良いネーミングだな、とか頭の中で考えていると

「兎に角一回連絡して。」

と、ウチダは強めの口調で言いっ放し去っていった。

そのまま僕はどうでもいいやと年を越しナオちゃんにも連絡を取らないまま季節は春を迎えていた、どうでもいいや君は盟友だ、その姿は見えないがいつも僕の側に寄り添い何か思考を働かそうとすると「どうでもいいだろ」と、囁き僕を思考停止と云う水が溜まった大きな壺の中へ突き落とす、突き落とされた僕は暗い壺の底で思考停止と云う水に体を浮かべて漂うのだ、上部から壺の口環の形で外界の明かりが差し込む、だが外界の喧騒まではここまでは届かない、そこは静かでヌルい僕にとって素晴らしく心地の良い場所だった。

その日は珍しく夕方までのシフトだったので僕は17時に仕事を終えると店から地下鉄の駅に向かう為に一旦地上へ出た、朝からずうっと地下にいた僕の眼に春光は眩しく堪らず目を細めた、日中は結構熱かったのだろう、未だ気温は高く僕は今し方羽織ったばかりの小豆色のジャージーをまた脱ぐ羽目になった。帰宅ラッシュにはまだ早いらしく地下鉄は程好く空いており僕は車両の出入り口の脇をキープすると手摺の上部に肩甲骨の横側をグリグリと当て悦に浸っていた、しかし地下鉄は巣鴨駅に着くと山手線からの乗り換えだろうか沢山の人が乗車してきて快適だった車内が一気に混雑した、そして僕の目前に女性が立つと扉は閉まり地下鉄は再び走り出す、そして僕は瞬間で今し方乗ってきた眼前の女性に目を奪われていた、デニム生地の短パンから程好い肉付きの脚が露出しているのを一瞥し横顔を眺める、クリクリとした垂れ目に厚ぼったい唇、石原さとみをダウングレードしたような横顔は美しいと云うよりはかわいいと云った風情だ、そしてその口元からさらに視線を下げる、白いタンクトップにねずみ色のカーディガンを羽織っている女性の胸元に一筋の谷間を確認する「素晴らしい!」その渓谷はグランドキャニオンより美しいもはや世界遺産だ!そして僕はその女性を視姦しようとする、

「どうでもいいだろ」

彼がいつものように僕の耳元で囁いた、しかし僕は「どうでもよくない!」と、初めて彼に反抗した、そして僕は彼を無視し存分に女性を視姦したのだ。

地下鉄三田線は「志村三丁目」駅の手前で地上にでる、遠くマンション群の稜線に夕日が落ちかけており緋色の明かりが一斉に車内に溢れその美しい胸の渓谷を照らす、何というクライマックスだ「ハラショー!!」世界は素晴らしい!名も知らぬ女性よありがとう、と僕は心の中で礼を言うと電車を降り帰路についた。 

 

その日以来僕の耳元で

「どうでもいいだろ」

と囁かれる事は無くなった、「どうでもよくない!」と声を上げ無視した事に腹を立て去って行ってしまったのだろうか?そんな事はもう一切解らないが何となく彼にはまた会えるような気がする、もし僕がまた彼に会いたくなったらコアントロートニックを持ってあのアスレチック公園のターザンロープでも満喫しにいこう、今度は僕が彼に胸の谷間の素晴らしさを説かなくては。

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