JRAには金を預けているだけ!

競馬日記。主に3連単フォーメーション

アリゲーター・カー

35歳の夏、僕は困窮していた。

 

30歳になる直前から人生で初めて正社員として働き始めていた高圧洗浄屋の給料は5年目35歳の夏では額面33万円程度だった、しかし手取りの金額は何故か24万と額面に見合わないほどの金額を控除されていたのだった。それは税金と社会保険のほかに社員旅行積立(5年間で1回しか行かなかった)やら建退協の掛金(違法)など意味の解らない項目を差っ引かれている為であり、僕はそんなアホくさい明細書を見る度に毎月深いため息を吐くと共にやるせない心持になるのであった。

 

そもそも、毎年1万ずつ基本給を上げてやると云う社長の言葉が2年目で反故にされ不信感を抱いていた僕にとって仕事に対するモチベーションを維持する最後の望みとなっていたのは、一年前に社長が言った

「来期の売業績が良かったら賞与を100万にする。」

と、云う一言だった。そして、今よりはまだまだピュアだった僕はその言葉を唯一の拠り所にし

「1年間で1000件の現場をこなす!」

と、自分なりの目標を立て鼻息を荒く100万円の賞与の為に仕事を続けていたのだった。

 

高圧洗浄屋の就業時間は8:00~18:00で現場がなければ日曜日と隔週土曜日が休みだったが繁忙期になるとそんなに休めるはずもなく、月末の締め日が近くなると社長が

「休日買い取る?」

と打診をしてくるのだが、その買取金額はたったの一万円であり、たまに来る大学生のバイト君の日当より安いと云うふざけた金額設定だった。

そんな中僕を一番陰鬱たる気分にさせたのは「待機」と云う制度であった。それは自分の携帯に会社の電話が転送され24時間体制で緊急対応を行わなければならない恐怖の制度であり、社員が一人ずつ一週間「待機」を順繰りに回していくのだった。「待機」になるとその一週間は酒も飲めずたとえ現場の無い日曜日であってもどこにも行けず常に転送電話に怯えながら過ごさなければならないと云う地獄の制度だった、しかしながらそんな日曜日でも休日扱いとされ仮に携帯が鳴り緊急対応を行ったとしても一件5000円の手当しか出さないクソケチな社長に対し、いつしか僕は怒りと憎しみの感情を抱くようになっていたのであった。

 

そんな35歳の夏からさかのぼること約半年前の年の瀬、巣鴨の寿司屋で執り行われていた会社の忘年会の最中社長が突然

「来年は埼玉に営業所を出す!」

とアホ面を若干高揚させながら語り出した、しかしその高揚感と反比例する様に社員たちは皆ゲンナリと顔を曇らせたのだが社長はそんな者を意に介さないような爛々とした眼差しで

「そして埼玉が軌道に乗ったら千葉県にも進出する!」

と、続けたのである。

 

そして数ヶ月後、その言葉通りに埼玉の坂戸に新しく営業所を作った社長は新車の高圧洗浄車を一台購入し一番の古株だった社員と共にその営業所へ意気揚々と送り込んだのだった。

しかし、残された者たちは4週間に一回だった「待機」を当たり前のように3週間に一回にされ、通常業務でも抜けた古株の分をカバーしなければならないと云ったなかなかの惨状に陥った。

「もぅムリ…」と、なった僕は社長に「待機」手当だけでも増額してくれと直訴したのだが

「なんで?無理!」と、けんもほろろに一蹴されてしまったのだった。

 

新しい営業所の売り上げは最初の2か月で5万5千円だった。新しく事務所を構え800万以上する新車の高圧洗浄車と共に一番高給をとっていた古株の社員を引っ張て行って売り上げがたったの5万5千円、そりゃ「待機」の手当を増やせと言っても無理なはずだろう。

そんなモヤモヤとした心持ちの最中、僕の心を決定的に打ち砕く出来事が起きた。

なんとバスのアナウンスで会社のCMを流すバス広告に年間80万円で契約したと云うのである、そして賞与月になる頃には

「あ~会社お金ないな~。今年は賞与出せるかな~。」

と、社長がぶつぶつつぶやきだしたのである。

年間1000件までは行かなかったが900件以上現場に走り古参の居なくなった穴まで埋めていた自分は100万円までは無くても去年よりは多めに賞与を貰えるかな~と淡い期待を抱いていただけに、その社長の一言は僕をひどく失望させると共に【何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安】が自分の胸の中にふつふつと湧いてくるのを感じた。

 

某動物園の虎の檻の中。

 

そんな【ぼんやりとした不安】を抱きながら虎の為にある水飲みの排水詰りを、僕が元請である水道屋の番頭さんに会社や社長の悪口を吐き捨てるように並べながら修理していたある日

「今度休みの日にバイトに来い、そん時に直近の給料明細も持って来い。」

番頭さんは僕の愚痴をひとしきり聞いた後にそういったのだった。そして数週間後の日曜日僕は言われたように給料明細を持って水道屋にバイトに行った、言われた寸法にパイプを切る作業を半日ほど手伝うとバイト代だと言って2万円を渡された、そして給料明細を番頭さんに渡すと

「ウチならこれだけ出すからウチに来い。」

そう言うと僕に、高圧洗浄屋の年収の1.5倍以上になる金額を提示してきたのだった。35歳、子持ち、ローン持ちの自分が職種まで変えて転職する事には滅茶苦茶不安を感じたが、収入は1.5倍になる…しかし新しい仕事についていけなかったら…様々な葛藤を抱えながら僕は一つの決心をした。夏の賞与の金額で決めよう!あんな事を言っていたがもしかしたら少しは社員の事を考えているかもしれない、去年より一円でも賞与額が増えていたら高圧洗浄屋に留まろうじゃないか、そうでなかったらスパッと辞めてしまおうと。

 

賞与支給日は僕の人生に於ける大きなターニングポイントになっただろう。

夕方になり社長から『賞与』と書かれた茶色い封筒を渡されると僕は中に入っている明細を引き抜く、そこに記載されている数字が全てだ、会社や社長からすればそれはただの整数の羅列かもしれないが僕にとっては今後の人生を左右する重要な数字、僕は恐る恐るその整数の羅列を確認した。するとそこには去年と全く変わらない数字が並んでいたのだった、1円も増えていないし1円も減っていない…僕がなんとなく微妙な心持になっていたところに社長が

「今年も賞与もらえてよかったね。感謝してね。」

と、一言付け加えたのだった。

僕はその言葉を聞くと頭の中が酷く冷たくなるのを感じた、それと全く反対に顔じゅうの皮膚が熱くなりうっすらと発汗してくるのも感じた、きっと僕は酷く怒っていたのだろう。数年たった今でも僕は未だにあの時の言葉と、あの虫唾が走るようなにやけた顔を忘れることができない。

 

数分後僕は水道屋の番頭さんに電話をしていた。

「いつから来れるんだ?」

と云う問いに

「10月から行けます。」

と、答えると僕はその日のうちに退職届を書き翌日社長へ手渡したのだった。

f:id:quri:20220428145548j:image

退職届出したその日は酷い夕立があった。雨が止み僕はカブに跨り帰路に就く、退職届を出した後の晴れやかな気持ちが夕立の後の空を僕の目に一層と輝いて映す、そんな中僕は東の空に一跨の虹を見つけた。

「大丈夫、なんとかなる。」

僕は虹を眺めながら自分の中の弱気な部分にそう言い聞かせた。

 

その日から数年が経ったが僕は今、なんとか水道屋をやっていけている。年収は高圧洗浄屋の頃の2倍以上になった、あのままあの場所に留まっていた自分と今の自分を比べる由はないのだけれど、今自分は間違っていなかった!と言えればそれでいいハズだろう。

続・菊坂のやさしいごはん

f:id:quri:20211006170327j:image

「菊坂のやさしいごはん」テレビのおかげか二日間ほどえらい盛況ぶりだった。

しかし二日目昼の行列で参ってしまったのか、早々店を閉め午後からはこんな張り紙が…然も8日は臨時休業しちゃうし。番組中20万円の家賃を3か月程滞納し、一日に一人も来店しないとぼやく様な店が折角門前市を成すような状況になったのに、それに水を差すようなこの張り紙。そもそもあの親子、絶望的な状況だとか言ってたけど全然悲壮感がないんだよね、もしかしたらそんなにお金に困ってないのかもね。

更に先週末からこんな張り紙が

f:id:quri:20211012130156j:image

「人間に年齢なんてないのよ、エディプス期を通過した者とそうでない者がいるだけなんです。」

僕の大好きなドラマ「すいか」で教授が基子に向けて語った言葉だ。

もしかするとこの「菊坂のやさしいごはん」という名の定食屋はエディプス期を通過していない子と、ゆがんだ愛情をもってその子の居場所を構築しようとするバカ親のエンターテイメントを提供する見世物小屋なのかもしれない。客はそのショーを砂被り席で見れる、決して美味いとは言い難い飯付きで1,000円それなら高くない寧ろ安いくらいかもしれない。

 

今日(12日)も素材が完売したから夜の営業を休むらしい、なんだかねー

菊坂のやさしいごはん

2019年9月、会社の裏にあった「まつば」が閉店

http://twitter.com/so_men_kirai/status/1179157616791998464

そんで翌年1月「菊坂のやさしいごはん」が居抜でオープン

http://twitter.com/so_men_kirai/status/1220198908778803200

当時のツイートでの予想とは裏腹に、なんとこの「菊坂のやさしいごはん」未だに存続しているのだ。

母子でやってるこの定食屋、母ちゃんがどうも毒親っぽかったり、息子は引きこもりっぽいし、兎に角不味い(味がない)しと色々不安要素満載だったのだが、持続化給付金のおかげなんだかなんなんだか潰れずに営業を続けている。

社長なんか「あんな不味い料理で客なんか来ないんだから給付金貰えてラッキーじゃん。」とか言ってたし。

そんな「菊坂のやさしいごはん」に9月中旬からこんな張り紙が

f:id:quri:20210930150726j:image

こんなん見るしかないじゃん。

視聴率2,000パーセント間違いなし!

 

視聴後追記

 

フジテレビのザ・ノンフィクション見た。

我々がこの「菊坂のやさしいごはん」を訪れたのはオープン初日。12:00からオープンと云う店に10分前に行くと、「まだオープン前だからダメ!」と、お母ちゃんにキツめに言われた後12:00過ぎに再訪。メニューはハヤシライスと煮込みハンバーグのみ、僕はハヤシライスを注文した。店の入り口にはシェフの経歴が貼ってあり神楽坂のフレンチで修行した後独立したと記されていたのを記憶しているが、それは全くの嘘だったことが今回の放送で分かった(訂正:神楽坂にあった母親の店を手伝っていたそうです。)ハヤシライスと味噌汁は全く味がせず「出汁って知ってる?」レベルの味でその後この店を訪れる事は二度となかった。

番組では味はいいのに…と云う表現が散見されたが全くの嘘である。味が良ければ店に客が来ないなんて事はないのである。たとえ台風だろうが大雪だろうがこの店に再訪する人物はこの近辺にいないのが確かな現実なのだ。

もっと突っ込み所は沢山あったのだがこの店もう直ぐ閉店との事…あと一回食べに行こうかな?どうしよっかなー

 

 

 

千葉ちゃん!

社長に勧められ見始めたYouTube 「千葉ちゃんの競馬人生」を一気に見てしまった。

この「千葉ちゃん」なる人物がなかなか面白い。

 

https://youtube.com/playlist?list=RDCMUCjcwDdgo2l0eeDZ6jzz69LA

 

「借金500万円!!」と謳っている(「奨学金300万円」「ワタナベコメディスクール?学費70万円」「先輩から50万円」「リボ払い30万円」「レイク・プロミス計90万円」なんだから実質の借金は100万弱って所だろうか)金髪の小汚い男がUberEatsで稼いだ金を競馬で増やして借金返済を目指す!と云うコンセプトの中でその物語は進んでいくのだが、この男全く借金を返す気配が無い。千葉ちゃん自身も返さなければいけないのは消費者金融の借金だけだと高を括っているようで「先ずはレイクの借金を減らす。」と宣言すると、たまに当たった配当を消費者金融の利子分位の返済に当てるだけで残りは焼肉、いきなりステーキ、すた丼、風俗へと欲望のままに消費し結局借金は減らない、そもそも500万の借金返済ならば大口でドーンと行かなければ返せないだろうに、ちまちました豆券をとっ散らかった様に買い挙げ句の果てには「馬券が当たったら美容院に行きたい!」とか言い出す始末、バリカン買ってきて坊主にして浮いた金で勝負しろよ!

 

そして千葉ちゃん、馬券がめちゃくちゃ下手。差し馬とデムーロが好きなのか(近年のデムーロは溜め殺し着外ばっかなのに)直線に向くとデムーロ‼︎デムーロ‼︎と叫びながら自分の腿を引っ叩き、馬券が外れるとウワー‼︎ウワー‼︎とその小汚い金髪を掻きむしりながら絶叫する姿には薄ら寒い感情さえ湧いてくるのと同時に、その予想の根拠がレースの度にブレているのがどうにも気になって仕方がない。

 

この千葉ちゃんと云う男、実は借金なんて返す気も無く現状のルーティンを繰り返す事でなんとなくYouTubeの収入を増やして生活できないかなぁ、なんて甘い事考えているおたんちんなのではないだろうか?

 

JRAがレース動画を使ったyou tuber 達に著作権侵害の申し立てをしているのでは?と噂されている昨今、千葉ちゃんは相変わらず動画をアップし続けているが大丈夫なのだろうか。そもそも「お笑い芸人になる為に東京に来た」と標榜している男が、奨学金を借り大学へ行き挙句の果てにUber Eatsで小銭を稼ぎながら返済の見込めない程度の少額で競馬に興じているこの小汚い男は、著作権侵害の申し立て以前に色々な意味で大丈夫ではないのだろうが…

 

そんな千葉ちゃん、唯一面白かったのはペットボトルに詰めた水道水を飲み「やっぱ水道水うまい!」と、ご満悦そうに叫ぶシーン。水道水一つでこんなに幸せを体感できる人間はそうそういないだろう、そのアホみたいに微笑む彼の笑顔に現代を生き抜く処世術があるように思うと、なんとなくそのあほヅラが福々しく見えてくるから不思議である。

 

千葉ちゃんに幸あれ!

 

池袋連合

「今月のPVが100を突破しました」

 

5月の中旬はてなブログからこんな知らせが来た、普段なら一週間に一回程度の閲覧数しかない僕のはてなブログの閲覧者数が突然増えるなんて時は大抵「絵本作家のぶみ」が炎上しているのだが、今回はどうもコロナ関連でニュースになった女子中学生に擦り寄りぶら下がろうとしたことが問題視されているのだそうだ…

 

それは2年程前にのぶみの学生時代の事を教えてほしい、暴走族かチーマーの総長だったらしいのですが…と云うtwitterでの質問に対し僕が「絵本作家のぶみのこと」と、タイトルを付けてずっとほったらかしにしていたはてなブログに投稿した文章がその後「絵本作家のぶみ」が炎上する度に読まれているっぽいのだが、確か僕はその文章の結びに「のぶみは暴走族の総長じゃないと思う(多分)カラーギャングとかそういう類いじゃないっすかね(多分)。」と云った内容で文章をまとめたと記憶している。

 

どうも「絵本作家のぶみ」が炎上するバックボーンの中の一つに「経歴詐称疑惑」があり、それはのぶみ自身が著した自伝のなかで彼が昔暴走族の総長だった!と語っている事に起因しているのだそうだ。

 

絵本作家のぶみ パクリ検証Wiki - アットウィキ

 

大まかな内容は上記サイトで確認(いろいろあるね…)僕はその中にある「池袋連合」なる集団についてどーしても言及したくなってしまった。

 

池袋、池袋、池袋、池袋…

僕のように板橋生まれ板橋育ち東武東上線沿線の住民であれば一番身近な都会である「池袋」実際僕が小学四年生の時初めて映画館に連れて行って貰い『フィールドオブドリームズ』を観たのも池袋だったし高校時代の飲み会(当時はそういう時代でした)では池袋東口にあった『地蔵さん』で一杯100円のサワーを部活終わりのポカリスエットの様に飲み気狂いのように酔っぱらっていたのも池袋であった、池袋、池袋、イケブクロ…きっと池袋を歩いてる人間の半分は板橋区民でもう半分は埼玉県民、それに豊島区民がちょっと混ざっていると言っても過言ではない程に池袋は埼玉県板橋区池袋町と云う特殊性を持った土地なのである。

 

そんな池袋でのぶみが池袋連合なる200人規模の暴走族の総長をやっていた! なんていうのだから僕は驚きを隠せないしそれは99.9パーセントウソだと思う。

 

その理由はいくつかあって、

先ず初めに当事は少し下火にはなっていたが板橋には成増辺りに䥝、西台辺りは愛羅武勇、大山辺りは龍神會と暴走族がいくつか存在し僕も中学生の頃からその存在を知っていた。地元にいれば愛羅武勇の落書きや龍人會のステッカーなどいくらでも目にすることができし見たくなくても目に入ってしまう程それはいたる所にあったのだが、僕は「池袋連合」なる落書きもステッカーも見たことがないしその集団の名前を40年間聞いたことがなかった、200人程の暴走族がそんなステルス戦闘機の様に隠れながら活動することが果たしてできるのだろうか?

もう一つに、僕は現在池袋を有する豊島区に接する某区で設備関係の仕事に就かせていただいているがその中で「元龍神會」の人や「大山で本職だった人」や「練馬で本職だった人」など色々な方々と接する機会があるのだが皆「池袋連合」については「知らない」と、言う事。そして何より僕が二十数年前のぶみと出会った時の印象と、今になって元本職の方と対峙した時の印象を比べてのぶみが200人からの暴走族の総長であったか?と聞かれれば僕は「それはない。」と、即答できてしまう程にのぶみはごくごく普通の少しやんちゃしてんのかな?位の印象だった事(事実僕が怯むことなく接することができた)にある。

他にも色々あるが割愛。

 

仮にのぶみが200人程の暴走族の総長だったとしたらそれはゲームセンターでバイクゲームで暴走に興じる友達が200人くらいいる不良集団程度だとおもう、それを彼が「池袋連合」と名乗っているのならばそれは真実なのだろうがそこに付随するギャグ漫画の様な逸話までも正当化するのはちょっと苦しいだろう。

 

以上、

 

のぶみには未来正当に評価される作品が創作される事を心から願いながら…

高知競馬行ってきた

「来年は高知競馬行くぞ!」

前年の社員旅行で鳥取に行った際帰り際に社長はそう云った、確か旅行中に携帯電話でポチポチ買っていた夜さ恋ナイターで散々やられた挙句ファイナルレースで10万馬券を目の当たりにさせられたせいで火が着いたのだと思う。

そして一年と云う月日の流れのなんと早い事だろうか!翌年2019年十月某日18:00僕達は高知競馬場の入場ゲートの前に立っていた。

f:id:quri:20191120073716j:image

 

1990年代後半から2000年代初頭全国にあった地方競馬場はかなりの苦境に立たされていた、南関東アブクマポーロと云う強い競走馬がいた頃高校生だった僕は部活が終わると競馬好きの同輩と共に繁々と大井競馬場へ赴いていた、そのアブクマポーロと岩手のメイセイオペラが走った帝王賞ではぎゅうぎゅうの人混みの中ゴール番の前でメイセイオペラが差されて馬券がゴミ屑になるのを、12月の冬休みに行った平日昼間の平場のレースでは頭で買っていた堀千亜樹が閑散としたゴール前100メートルの所でいきなり落馬したのを目の当たりにしていた程度に地方競馬ファンだった僕達ですら

「益田競馬が廃止になるらしい。」

とか

「北関東の競馬がなくなるらしい。」

などと云う噂話を耳にするほど地方競馬は衰退の一途をたどっていたのだった。

実際当時鳥取に親戚のあった先輩が叔父に連れられて益田競馬場に行き単勝馬券を1000円買おうとしたところ叔父に

「そんな馬券一票も売れちょらんだけん、100円だけこうちょったらいいダニー。」

と、言われた程競馬場場が閑散としていたのだと笑い話の様に語ってくれたその後直ぐ益田競馬は廃止になってしまったしさらに数年後には北関東の競馬場も全て無くなってしまったのだから地方競馬と云うものが今後絶滅していくコンテンツなのかもしれないというイメージは当時の世間の共通認識だったように思う。

同様に高知競馬も常に廃止の噂が囁かれていたのだが空前の「ハルウララ」ブームによる延命と2000年台後半から急激に普及したネット競馬とスマホの恩恵により急速に売り上げが伸び今では低迷期の10倍以上を売り上げ、一時1着賞金が135万円まで落ち込んだ年末の高知県知事賞は2018年には1着賞金500万円になり昨年末には800万円になったと云う明るいニュースを聞くに触れると廃止に追い込まれた数多の競馬場もあと数年踏ん張っていたらなぁと感慨深く思ったりもするのだった。

 

f:id:quri:20200107125324j:image

競馬場の入場ゲートをくぐりダートコースを右手に見ながら100メートル程歩くとボロの3階建てのスタンドがあらわれる、今や超絶儲かっているはずの高知競馬だが場内は意外なほど閑散としておりそのさみしく佇まうスタンドの冷たいコンクリートに時折こだまするケタケタと笑う子供たちの声に何とも言えない郷愁の念を抱きながら僕たちはスタンドの奥にある高知競馬管理事務所へと向かった。管理事務所受付で座っていた男性職員に今日のレースに協賛している旨を伝えると僕たちはその男性職員に連れられてスタンドの最上階にある特別観覧質へ案内された、今回僕達は折角高知競馬まで行くのだからと協賛レースに申し込んでいたのだった。

f:id:quri:20200205165529j:image

特別観覧室と云うその部屋には大小のモニターと椅子に長テーブル、それと2、3人が掛けれるソファーが対になっておりそのソファーに挟まれて置いてあるローテーブルの上に高知競馬の新聞が人数分置かれていた。僕はその競馬新聞を一部手にするや否やたった今案内された道を引き返しビールを求め一階のスタンドで売店を探したのだった、スタンドへ降りると先程感じた何とも言えない郷愁の念は一層色濃く漂い僕はなんとも言い難い物悲気分になりながら売店を探す、パドックの横で先程ケタケタとこだませていた笑い声の主らしい若い二組の母子のグループが馬も見ずに井戸端会議をしているその先に僕はつげ義春の漫画で石でも売っていそうなボロの売店を一件発見すると、これまたつげ義春の漫画から抜け出てきた様な風体のやる気のない中年のおばちゃんにモツ串と缶ビール求めると閑散としたパドックを眺めた。グリグリの一番人気の7番を1着軸に気配の良かった1番と2番を2着付けにした三連単馬単を小額購入するとスタンドを抜けゴール前の椅子に腰掛け大して旨くないモツ串をグニュグニュと噛みしめ缶ビールで流し込み曇天の夜空を舞う生暖かい風に頬を撫でられながらレースを待っていると遂に僕は「この世にある天国ってきっと高知競馬だなー」と云う真理に気付いてしまった。

f:id:quri:20200315193028j:image

レースはグリグリの7番が逃げると直線で後続をちぎり大差で入線すると番手で先行した2番がふらふらになりながらゴールを目指す、ゴール前で派手な花柄のワンピースを着た初老の女が「そのまま!そのまま〜!」と、絶叫するキチな姿に僕が目を奪われていると後続から追い込んできた9番を半馬身ほど凌ぎ2番が2着に入線した。僕は三連単馬単を的中させると3万弱程の配当を手にした、その後も花柄ワンピースの初老の女はレース毎に「そのまま!そのまま〜!」と、絶叫を繰り返していただが恐らく馬券など買っておらずただただゴール前で毎回絶叫を繰り返す高知競馬の名物バァさんなんだろうなと認識したのだった。

f:id:quri:20200316093724j:image

その後特別観覧室に戻り高知競馬名物ファイナルレースを堪能していると旅行に同行していたミウラ君が「当たった。」とボソッと呟いた、彼の手にある馬券を見ると三連単を2点買っており的中馬券を2000円分持っていたのだった。僕たちはその後レースが確定し払い戻し金を確認すると管理事務所受付に挨拶をし払い戻しをして帰ろうと云う事になったのだがいざスタンドの一階に降りてみると場内はひっそりと誰もおらず券売機は既に全て閉鎖されていたのだった、明日の朝には四万十まで移動する僕等は今換金しなければ当たり馬券もただの紙屑になってしまうため入り口付近にいた警備員を見つけ事情を話すと競馬場の職員を一人呼んでもらいなんとかみんな換金する事ができたのだった。

 

数時間前に入場したゲートをくぐり競馬場を後にすると駐車場に僕等が乗ってきた車が二台だけがポツンと止まっている、駐車場の出口では先ほどの警備員が

「早く帰れよ!」

と、言わんばかりに駐車場出口を封鎖するチエーンを持って待機してるのだった。

地方競馬の売り上げが伸びていると云う割には場末感漂う高知競馬を目の当たりのした今回の旅で僕は改めてインターネットとスマホの偉大さを感じた。NRAはナム・ジュン・パイクスティーブ・ジョブズを直ちに表彰すべきだろう。